1人が本棚に入れています
本棚に追加
春を舞う。
presented by virid × blau
illustration by すぺ
モニタに向かっていた身体を伸ばし、あくびをして、キッチンに向かった。白くちいさなケトルに水を入れて、火にかけ、沸騰を待っている間にラジオのスイッチを入れた。ラジオから流れてくる音楽に爽やかな曲調が増え、リスナーからのリクエストソングに添えられたメッセージには、別れの悲しさと希望で溢れた言葉が多く綴られた想いが増えていく。お気に入りの白磁器のカップを取りドリッパーを置く。リネン製のコーヒーフィルターをはめ込んだら、あらかじめ粉状にしておいたコーヒー豆を12グラム入れ、沸騰したお湯で豆を一度蒸らし、淹れていく。コーヒー豆の表面が泡立ち、いい香りと共に褐色の雫が白いカップを満たしていく。
カップを持ってモニターの前に戻ろうとした時、ラジオから“ぼくたちの春”を告げる歌が流れた。その音と一緒になって漂い、開いた窓に腰掛けて、コーヒーを口にしながら春の風を食むように口ずさんだ、春の歌。
ぼくたちの春を迎えてから一ヶ月。天気予報や桜前線などを見ながら、その日をそわそわと待っていた。この一ヶ月の間、会うひと、会うひとに「何?デートかな?」とか「はいはい、ごちそうさま。ごちそうさま」などと言われるのだが、違う、そんなのじゃない。そう言っても呆れられるか「へえ?」と、意味深な笑顔をされるだけだった。だから、ぼくらはそんなのじゃないのに。
その日、部屋を出てドアの鍵を閉めると、また風を食みながら春を唄った。小さなマンションの階段を心地の良いステップで降りていき、駐車場に、“ぽつり置かれた”という表現が実に似合うぼくの車は外国製の小さな黄色い車だ。その小さく薄いドアを開くと、バッグを後部座席に放り込んだ。子どもの頃に再放送をしていたドロボウのアニメが大好きで、その憧れの主人公が乗る車と同じ車を買ったのだ。劇中では縦横無尽に走るのに、現実は違う。まず、毎回乗る度にエンジンが掛かるのかすら怪しいのだ。そんなポンコツなのに、乗れば乗るほど楽しい車だと思ってしまうのは、『きっと、君もポンコツだからだよ』と彼女に笑われたのを思い出した。
がろがろと不器用な音を響かせて街を抜けていく。窓を開けているのは春の風を感じていたいから……なんていう洒落たものではなくて、エアコンなど付いていないからだ。そのついでに春の風を感じる。順序が逆かもしれないが、この車では普通だ。つまり、普通なんていうものは立ち位置が少し違えば、見える景色が驚く程に違うという事がありえる。それが180度違えば、どうなるだろう。自分自身が普遍だと思えるだろうか。もし、勘違いしているなら人は間違う。視野を広げる事が大切だというのは、そういう事だ。ひとつ、面白い事を教えよう。
“真実はひとつ”
これは、嘘だ。真実というものは“人の数だけ”ある。どれも嘘ではなく、またどれも本質では無い。客観、なのだ。重要なのは“事実”である。
黄色い車がくぐる桜の木が華やいでいて、街を歩く人々も冬に冷えた重たいコートを脱ぎ、春の色をまとって、足取り軽く踊るように雑踏を上手く縫っていた。左手でウィンカーレバーに触り、左折。坂を登り高速道路の本線へ合流しようとする何ともない事が、この車ではひと苦労だ。床が抜けるくらいにアクセルペダルを踏み込み、車内に響くエンジンの音はけたたましく頑張っているのだが、それに比例してパワーも車速も出ない。ちらちらとミラーを見ながら操作をするハンドルにも激しい振動が伝わっているのだが、その振動もまた虚しくなるくらいだ。
ぼくのような人間は、どうしてお金を出してまで不器用や不便を手にしたがるのだろうか。それは「きっとポンコツなんだろうなあ」と、また彼女が言ったそれを口にして苦笑いをした。
彼女は、いわゆる同郷の幼馴染としよう。高校を卒業し、故郷を出てから会えなくなった。会えるのは一年に一日ある今日という日のみ。よく話題として挙げられる「その幼馴染とどういう関係までいった?」という期待に対して誇れる話は全くなく、かと言って「家が近いだけで付き合いは無えの?」という落胆には、365日分の記憶が18年間分あると答える。そんなのだから「つまり、友達以上、恋人未満ってやつか?」と眉をしかめられるのだが、それも違い「恋人以上、本人未満」なのだと話す。すると「なんだ、ソレ?」と訝しげに見られる。知っている言葉は幾つかあれど、ぼくが持つ知識と話し方では上手く適切な関係性が説明できないのだ。ただ、心と心で繋がっている。でも、恋人ではなく、友達でも無い。そして、ぼくでもない存在。
フロントガラスの向こう、高速道路から見える山々に淡い桃色に染まる肌があった。
「あの桜は誰なのかなあ?」
春は不思議な事が目に見えて起こる季節だ。本当は、いつも起きている事なのだけれど、なぜか春以外で話題になる事は少ない。別れであり、出会いでもあり、始まりと終わり、涙や笑顔がそこらにある。ぼくと彼女は全ての経験の反対側を感じ、全ての選択肢の反対側を選んで、全てを共有してきた。しかし、そこに恋心などは芽生えず、友情すら無い。それでも絶大な親近感と安心感があって、彼女がいるから生きているんだとも言える。黄色い車のラジオから春が流れてきたから、また食むように口ずさんだ。
がろがろと不器用なエンジンは目的地までの二時間半、不機嫌になる事なく気持ちよくぼくを運んでくれた。だから、車体に触れて「ありがとうな。でも……帰り道に機嫌を損ねるなよ」と言った瞬間、悪寒がした。
「お前、帰りに止まる……つもりだろう?」
こいつは本当に気分屋だから困る。いつも機嫌を伺い、手をかけていないとすぐにダメになる。丁寧に扱っているから応えてくれるなんて期待はしない方がいい。だからといって、雑に扱えば何倍にもなって反抗する気分屋さん。だが、そこがいい。
今や利用者が少なくなり廃線になったビニール袋が紐で巻かれた古いバス停。そこにある待合用の小さな、小さなトタンの錆びた小屋。小屋の横にも置かれているペンキの剥げたベンチに座り、空を見上げた。そこには太く大きな幹で支えられる荘厳な淡い桃色の天蓋があり、樹齢を何百と数えるらしい桜の樹が覆う。頭上、一面に咲く桜の花は、空の色が青ではなく淡い桃色なのだと錯覚させるくらいだ。さて、彼女はまだ来ない。それは、ぼくが早く着いたから知っている。
「なんせ、黄色いポンコツがよく走ってくれたからなあ」
小さなラジオの電源入れて、バッグの中からミネラルウォーターを取り出すと、キャンプ用のバーナーにかける。チタン製マグカップをふたつ、ドリッパーとフィルターも。コーヒー豆はコンパクトミルで挽いて香りを風に乗せ、沸騰したお湯で、一度、豆を蒸らしてから、お湯を落としていく。マグカップの底に、ぱたぱたと落ちていく褐色の雫。その時、ふわっと風が通り抜け、コーヒーの香りが舞い、傘を持った君がやってきた。
「わわっ!かなり待ったよね!?」
とりあえず座ったら、という意味でベンチを、ぽんぽんと二度と叩いた。
「丁度、コーヒーが入ったところだよ。はい」
ぼくの隣で可憐に存在する彼女の細い身体に温かいコーヒーが入っていき、安堵が大きなため息となって空に吐かれた。
「相変わらず、君のコーヒーは美味しい」
それはどうも、と、ビターチョコレートをひと欠片差し出す。しかし、彼女が「甘い……チョコレートはない?」と顔を歪めるから「はい」とミルクチョコレートを渡した。
「相変わらず………君は意地悪だな」
はいはい、と、軽くあしらって、淡い桃色の空を見上げた。桜色に染まる隙間から青が覗くのだけど、桜の花の色は青の補色から色温度が外れているのに、こんなにも気持ちが良いのは何故だろう。
ぼくと彼女は、まさに補色のような関係で好みや選ぶものが全て反対側にある。チョコレートはビターとミルク、ぼくは生魚が苦手、彼女は大好きだ。朝は和食、彼女はパン、濃い味付けが好き、彼女は落ち着いた味付けが好き、ホラーやグロい映画は受け付けない、彼女はスプラッタまで観られるツワモノ。読書家、本の類は読まない。ゲームをする、運動をするのが好き、車の運転ができる、そもそも免許を持っていない、実を言うとぼくはコーヒーが嫌いで、彼女は好き。ぼくは男性で、彼女は女性。
桜が好きで、桜が嫌い。
共通点は一年に一度、この桜の木の下で花がついている間だけ、お互いの事が見える。
ぼくたちは幼少期から互いの存在を視覚的に認識していた。だけど、ある日、ぱたっと姿が見えなくなったんだ。でも、いつも隣同士、背中合わせにいるという事は感じていた。調べた知識や言葉で言うと『パラレルワールド』とか『平行宇宙』の、ぼく、わたし。表と裏、互いに選ばなかったほうの、ぼく、わたし。わたしとぼくだ。
恋人以上、本人未満。
ぼくたちの姿は一年に一度やってくる春の桜前線に乗って、この桜の下で出会う。だから、一年に一度、互いの一年間の話をする。選ばなかった方の物語を教えあう。この一ヶ月の天気と桜前線を見ていたら、今日辺りが満開だったからやってきた。今から話し始めるぼく、わたしの一年間が終われば、また、ぼくらは同じ次元の違う方に生きる。また来年、この桜の花が咲くまでのさよならだ。雨が降って花を叩き、季節が進んで若葉が萌ゆる。風が吹いて、桜吹雪が、
春を、舞う。
おわり。
あとがき。
本作は、私ヲトブソラが敬愛するイラストレーター すぺ さんと『virid × blau』としてのコラボレーションで出来上がった世界です。やり取りの中で「春」というテーマで連想した時に、すぺさんが描く本作の『光』はどんなやわらかさなのだろう、と掻き立てられ、浮かんだ「ぼく」と「わたし」の会話でした。すぺさんから上がってきたキービジュアルの第一稿を受け取った瞬間から恋に落ち、いまもiPhoneの待ち受けとして側にいます。
すぺ
Twitter : https://twitter.com/cePszxJ8r0cBc0l
pixiv : https://www.pixiv.net/users/4844485
最初のコメントを投稿しよう!