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5月4日
働く手だ、というのは言い訳に過ぎない。カサついた手指が、こんなに恥ずかしいとは。
「あの」
頼りない声を発しながらも、慎重に相手を値踏みしている自分がいた。
年齢は自分と同じくらい。ここまでの言動から、かなりの自信家とみた。自分が女性に何を求められているのか、よくわかっている男。服装は上品だから、おそらくいい企業の子息なのだろう。
宝石というのは、どこまで人を貪欲にするのか。展覧会という名の、品評会だ。他人事のように、壁際に立ってみる。実際、他人事なので。
事の発端は、大企業の代表が息子にその座を譲ると発表したことだ。若輩者を頼むと言わんばかりに、自らが主催する展覧会に取引先の代表達を招待してきた。父のような零細企業の社長にまで、招待状が来るほどだった。
着飾った両親は、宝石をずっと後ろから眺めている。見えているのは人の背中だろうに、おこぼれを狙っているのだろうか。
家を出る前に地味だと酷評されたワンピースは、お気に入りだった。
「いいんですか、見なくて」
話し掛けてきたのは、光沢のあるプレミアムブラックのスーツを着こなした若い男だった。華やかな見た目のせいで、視線が痛い。
「ええ。親の付き添いですから」
面倒くさい。
実家暮らしではあるが、仕事は違う職種を選らんだ。一人娘には同じ苦労をさせたくないと力説されたが、レストランの厨房に入る私の朝は誰よりも早い。
「まあ、そんなことおっしゃらずに」
ポケットから取り出したのは、スーツと同じ色をした小箱だった。
「貴女によく似合うと思いますけど」
中身は、指輪だった。小さな緑色の石が、シャンデリア風の照明に照らされて輝く。蓋の内側に刻印された金字は、どの年数を示しているのか。展示されているどの石より小さい。
「いえ、そんな」
その分、特別な石かもしれない。そんな大層なものをもらったところで、何を要求されるかわかったものではない。
逃げようと一歩下がったところで、壁に背中をぶつけるだけだった。
「遠慮しないで」
ここから男は早かった。逃げ道を塞ぎ、左手を取る。
中指に石が光っているのを見てほっとするのは、我ながら違うと思う。
「やっぱり。シックなワンピースによく映える」
「いや、もうほんとに結構なので」
指輪を抜こうと伸ばした右手を押さえ、唇を寄せた。
「ひっ」
今度は、左手の薬指。
「ちょっと!」
「大事にしてくださいね、それ。父から譲り受けたものなので」
混乱する頭を懸命に回しながら、左手を握りしめる。
父さん、とりあえず次の契約は考え直そうか...。
エメラルドの日
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