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「それにしても、悪いわねぇ荒尾さん。新婚旅行も先送りにさせちゃって」
「いえ、これからが書き入れ時なのは重々承知しておりますから」
「うちのことを分かっていてくれて助かるわね。頼りにしているわ」
「頑張ります」
母がそういうのも当たり前だ。荒尾さんは【森乃や】の事務長。
総務経理人事など、事務的なことを任されていて、社長の右腕のような社員。
その彼と今日、【森乃や】の長女であるわたしは、森乃やを救うための政略的婚姻を結ぶことになっている。
新婦そっちのけで今後の話を進めていく二人からそっと目を逸らし、視線を窓の外へと向けた。左右に開け放たれた雪見障子の向こう側には、見事な五月晴れと森乃や自慢の日本庭園が広がっている。
いや……今は「自慢だった」が正しいかな。
以前は美しく切り揃えられていた松の枝は、今は不揃いな箇所がいくつもあり、玉砂利の上や庭石の上には枯れ葉や雑草が目についてしまう。
『人の手が行き届かなくなった店は、庭から崩れていく』
どこで聞いたのか忘れてしまったけれど、それが事実なのは今の森乃やを見れば明らか。
傾いた経営を立て直そうと必死にやっている中で、料理や店の内には手を抜いてはいない。
だけど、さすがに外のことまで手が回らなくなったのだろう。
これだけの大きな庭をきちんと維持しようとすれば、当然それなりの費用がかかってくるのだから。
わたしがまだ学生で、森乃やの仕事を手伝っていた頃には、あそこをお客様にご案内したり、掃除をしたりしていたのに―――と、荒廃の兆しが見え隠れする庭に心が痛んだ。
客室からは見えない庭の奥側は、幼いわたしにとって格好の遊び場だった。たまに散歩に来たお客さんに見付かって、一緒に遊んでもらったりしたことも今では懐かしい思い出。
どうしても自分のやりたいことをやってみたくて、飛び出しはしたけれど、【森乃や】が自分にとって大事な場所だということは変わらない。ここで生まれ育ったのだのだから。
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