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一.
魔法、またはそれに準ずる物により、我々は、不当に人間を殺めてはならない。
◇
第1話 夜明け / The Dawn
夏に焼かれていた。
圧され溶かされるような蒸し暑さの中で、これは今日も駄目だな、と蓮は思った。
真上から降り注ぐ日射がジリジリと肌に突き刺さる。まるで石焼き釜の上に立たされているようで、茹だつ全身からは汗が滲み出ていた。
ハンカチで汗を拭っても、そのままにしても、上がった体温は一向に下がりそうにもない。身体中の水分が奪われて、余計に気怠くなる。
凪いだ暑い夏。
日陰にいるというのに、熱を帯びた空気が澱んでいる。
どこまでも澄んだ青い空には雲一つなく、三十分前から借りている土産屋の軒先につる下がった風鈴の短冊さえ、ひとつも揺れやしない。遠くのコンクリート上には陽炎が揺らめいて、平日の道をだるそうに歩く人の足元をぼやかしていた。
――ああ、さいあく。
せっかく巻いた前髪も崩れ、海藻みたく額に張り付いている。蓮はべっとりと張付いたミルクティーベージュの髪を指先で払った。駅前に並ぶ店の窓硝子に向き合って、なんど汗を拭いながら髪を整えただろう。
久しぶりのデートだからと気合いを入れたのに、こんなにも暑いなら、やめておくべきだった。それとも人を待つのなら、先まで入っていたカフェに居座り続けていれば良かったかもしれないけれども、混み合う場所に二時間もいられなかった。
唯一良かったと思ったのは、涼しげな紺のフレンチスリーブシャツを着てきたことだろうか。暑いなら白い色の服を着てくればよかったと思う反面、これなら汗が目立たなくて良かったとも思える。
首筋に伝う汗を拭うと、身につけていたネックレスのチェーンが指に引っ掛かった。
光に当たると水面のような光を放つ青い硝子。ブリリアントカットの偽物の宝石。誕生日のプレゼントに貰ったものだが、硝子がキラキラと光るたび、かえって惨めな気分になってくる。貰った時は、いちずに、ただ、嬉しかったのに。
「来ないなぁ」
首元の襟を掴み、パタパタとなけなしの風を送りながら、蓮は携帯電話を取りだした。
メッセージなし。着信なし。
蓮の口からそっとため息が零れた。怒りのため息ではなくて、悲嘆ため息。何度も同じことがあると、それは怒りを通り越して諦めになる。もしかしたら来るかもしれないと馬鹿みたいに思った自分が嫌になって、蓮はもう一つため息を吐き出した。
「あーあ、またかぁ」
メッセージアプリを開いて、指を動かす。『今日の約束、忘れた?』と、『ごめん、急ぎの用事が入った。今度埋め合わせする』。スクロールをしていけば、二つのやりとりが数回も目について、蓮は心の中で唸った。
埋め合わせができるほど、もうこの穴は小さくない。
その前も、その前も、予定はすれ違って、予定を入れれば向こうに急用が入って。向こうが忙しいことも知っているし、こちらもバイトと授業でギリギリなのも分かっている。我が儘を言うつもりもない。だけど――。
「もう、連絡くらいちょうだいよ……」
――どこにいるの、と打ってから消して、もう別れよう、と打ち、また消した。
彼、市ノ瀬優翔と付き合い、一年と数ヶ月が経つ。大学の授業で同じグループになったのが切っ掛けだった。告白は優翔からだったが、お互いが心惹かれていた――今ではもうそんな自信もないけれど。
恋愛経験が無い蓮でも、優翔からの好意は目に見て分かった。恋愛猛者の友人達でさえ、二人の間に存在していた感情が、誰の目にも明らかであったと言わしめるほどだった。二人は恋人になってからもそれなりの時間を過ごしていたし、なにより一緒にいることが楽しいと蓮は思っていた。つい、二三ヶ月前まで。
――何がいけなかったのだろう。
潮時だと思う自分がいるのに、こうして切り出そうとする気持ちを消す自分もいる。
迷った挙げ句、『今日、約束してたの、忘れちゃった? 連絡待ってるね』と一投目を打って、『けど、もう無理』とキツい二投目を送っていた。そのまま携帯を閉じて鞄に放り込む。ついでに汗に濡れたネックレスも外して鞄に入れる。
「うーんっ、よし! もう考えるのやめ!」
パチリと頬を挟んで、空に向かって大きく手を伸ばした。仕方ない、仕方ない。そう思いながら帰ろうと思って歩き出すと――、ピロロン。鞄の中から軽い音が聞こえてくる。蓮は肩を跳ね上げた。急いで携帯を探し、暗くなった画面の電源を入れる。
『ねぇ今日ひま? これから遊び行かない?』
『あ、ごめん、今日デートだっけ』
「あ……、あー、あぁ……。あっちゃん、か」
画面に表示された名前はアサヒ。蓮の高校時代からの親友、東堂朝陽だ。蓮は五秒ほど画面を眺め、返事を打った。
『行く』
『お? 返事はや いまどこ 何があった』
『仁佐駅の前 どたきゃん』
『まじかあいつ…… すぐ行く』
走るポーズをした猫のスタンプが送られてきて、蓮は小さく笑う。
『涼しいとこで待ってな』
「おっけ……と」
送信してしばらくたたないうちに、『どんと愚痴聞いたげる』と返信がくる。蓮は肩を落とした犬のスタンプを送るだけにして返した。ほどなくして既読がつくが、そこで会話は持ち越された。
蓮は自分の気持ちを、ただのフリックで言葉にできる自信がなかった。
◇
「そんなの別れなって何度も言ったじゃない。どーして別れないの? も、もしかしてまだ好きなの!?」
「う……うーん」
「ハァーッ! 煮え切らん」じっとりと座った目で朝陽は言う。「あんた、おしとよしにもほどがあるって」
「う、うん……あっちゃん、それを言うならお人好し……」
「あーうん! ほんっと、おひとよし!」
憤慨するように朝陽が大声を出す。店内にいた客から痛い視線が突き刺さり、蓮は「声がでかいって」と声を潜めて言った。
落ち着いた雰囲気のあるシックな店の中には、ゆったりとした音楽とクーラーががんがん働いている。外に比べれば天国のようだ。
平日の夕方だと言うのに、暑さにやられて逃げてきたのか、店内には二人以外にも大勢の客が訪れている。駅近というのもあるだろう。電車が来るまでの一時を誰もが穏やかに過ごしていた。
「ごめん、つい……」朝陽はちらりと周りを見ると申し訳なさそうに身を縮めて、食べかけのガトーショコラをひとかけら分、フォークで切った。「で、なに? 結局二時間以上も待ってたってこと?」
「うーん、まあ。そうなの。待つのは嫌じゃないけど」
蓮は目の前に置いてあったカフェラテのカップを持ち上げた。が、その様子に朝陽が恨み募った鋭い視線で蓮を見る。朝陽は大学でも一、二を争うキレイ系の美人。美人にすごまれると、蓮はいつもドキリとした。
「そういう時はすぐに帰りなさい。この前もその前もドタキャンしたじゃない。やっぱりあいつはダメなんだって!」
「い――、良い人なんだよ。思いやりもあるし、考えも尊重してくれるし」
「いくら顔が良くて、優秀で、性格もよくたって、いつかは人間変わるモンなんだから。それか絶対ウラがあるの!」
「お、おちついて、あっちゃん」
「あいつ、私の大事な蓮を傷つけて――」
「だいじって大げさな……ま、ほら、もしかしたら連絡できなかったのかも。前はバイト忙しいって言ってたし」
「それ、この間もそう言ってたけど?」
カップを置こうとしていた手を止めて、蓮はうっ、と言葉に詰まる。確かにそうだ。
「そ、それに、もしかしたらこうなるかなーって、思ってた」
「あんなに、いい雰囲気だったのに。……もしかして、浮気?」
「そんな様子なかった。まあ、でも、過ぎれば気づくことだってあるよね」
と、なにもなしに蓮が言うと、朝陽がケーキの真上からグサリとフォークを刺した。その容姿に似合った綺麗な食べ方をする朝陽には、とても似合わない所作。かなり怒っているようだ。
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