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「……優翔のヤツ、今度会ったらタダじゃおかない」
「もー、本当に大丈夫だってば」
困ったように笑うと、朝陽は一瞬悲しそうに顔を歪めてから、真っ直ぐに蓮を見つめた。
「なんであんたが笑うのよぉ! なーんも気にしてないってフリしてんの、バレバレなんだからね!? もっと怒ってもいいのに……。蓮、もう少し自分を大切にしなよ。あんたはあんたが幸せだって思える道を進むの。わたし、あんたには幸せになってほしいの」
「あっちゃん」蓮は首を横に振った。「その、……心配しないで。あっちゃんと遊べて良かったし、おいしいケーキ食べれたし、楽しかった。気分転換になったよ」
「蓮、でも」と、朝陽が顔を上げる。
「だからこれでお終い! わたしの愚痴に付き合ってくれてありがとう。あっちゃんが怒ってくれたら、なんだかすっきりした。私、優翔とちゃんと話するから」
「うん、うん。それがいいって。あんなやつ、早く別れなって」
「そうだね……。私も、あっちゃんに幸せになってほしいよ。最近どう?」
「最近、うーん」朝陽は沈んだように目を伏せた。「勉強そんなに進んでないくらい」
勉強、と小さく呟いて、「あっちゃんらしいなぁ」と蓮は言った。美人な朝陽は周りからとてもモテるが、本人は全くもって自分の恋愛には興味がなかった。
「国家志望だっけ?」
「そー」
はあ、と盛大に肩を落とした朝陽に、珍しい、と蓮は思う。朝陽は、自分のできることをそつなくこなすことができる人だ。当然勉強なんて、蓮の何倍も良く出来る。逆に何ができないのか、蓮はよく知らなかった。だが、そんな朝陽にも、悩むことがあるのだろう。
「あっちゃんならできる! ま、手伝えることがあったら言ってね」
「……うん、ありがと」
朝陽は嬉しそうに笑ったが、いつだって成績上位の朝陽の手伝いになることなんてなさそうだ。――おひとよしは言えないのに。
「そういう蓮はどうなの。インターンとか行ったでしょ?」
「まあ、うーん。ぼちぼち?」
「なぁにそれ、私よりヤバそう」
蓮は曖昧に笑って誤魔化した。朝陽は特段なにも追及せずにコーヒーを飲み、残りのケーキを口に運んでいく。
蓮はちらりと机の上に置いてあったスマホに視線を落とした。通知は一件も来ていない。自分の中の何かが、がくりと肩を落とした。
「あいつから連絡来てないよね」と、朝陽がコーヒーを置いた。「このあと、どっか行く?」
右手の腕時計を見れば、時間は五時半を回ろうとしている。カフェの窓から見える外はまだ明るいが、青い空が徐々に透き通った白みを帯びていた。これからまた暑い外に出るのも考えるだけで嫌になるが、いつまでもこの場にいるわけにもいかない。
「今日はもう帰ろっかなぁ。明日一日バイトあるし」
蓮が言うと、バイトかぁ、それなら早く帰ろっか、と朝陽は間延びした声で頷いた。
二人のアパートは同じ方面にあった。歩いて帰れる距離でもあるが、蒸し暑い空気に三十分も曝されるなんて言語道断。二人は早々に駅前広場のバスターミナルへ向かい、大学方面行のバスに乗り込んだ。
車内は冷房が効きすぎていて、乗り込んですぐ、二人は外との温度差に身震いした。蓮は入口に近い一人がけの座席に座り、朝陽はその前に座った。この暑い夕方にバスを利用する客も大勢で、出発する頃には車内は満席になった。
人が大勢いるというのに、車内はほどよく静まり返っている。
学校帰りの子どもたちの密やかな会話だけが目立って聞こえてくる。蓮と朝陽もバスの車内ではあまり喋らなかった。偶然目が合って笑ったり、片手にしたスマホのSNSで面白い画像ればそれを見せ合うだけで、これは良くあることだった。
城下町の狭い路地を器用に抜けていくバスが五つ目のバス停で泊まった時、外の暑さを背負いながら、杖をついた白髪の女性がバスに乗った。
女性はあたりを見回して、バスの入口の近くに身体を寄せた。席はいくつか空いているが、それはどれも後ろの席で、段が一つ上がった場所だ。蓮は荷物を持って席を立つと、女性に声をかけた。
「あの、席、座ってください」
女性は目を瞬いて、蓮の顔を驚いたように見上げた。
「いいのかい? でも……」
「次のバス停で降りるので、ぜひ」
「そうなの。じゃあ、お言葉に甘えて」
女性はゆっくりと席に腰を下ろして、ほっと肩をなで下ろした。ほどなくしてバスが定刻通りに動き出し、車内アナウンスが流れた。蓮は前の座席に座っていた朝陽の隣に立ち、「座る?」と聞く朝陽には首を振って、吊革に手を掛けた。
「やっぱり蓮はすごいね。優しいや」
次のバス停で二人は降車した。隣を通り過ぎて行くバスを見送ると、隣を歩いていた朝陽からそう言われて、蓮は首を傾げた。
「何が?」
「さっきのやつ! おばあさんに席、譲ったでしょう?」
「だって困ってそうだったし、当たり前じゃん」
「当たり前のことができるのがすごいのよ」
「うーん、そうかな……。でも、そう、目の前で困っている人がいたら、私、自分の手を差し出すことをためらいたくない、かな」
「それがすごいんだって」
あまりにも、てらいもなく褒めるので、蓮はなんだか恥ずかしい気持ちになった。むしろストレートに人を褒められることが朝陽のいい所だが、これは裏があるな、と蓮は探るように目を光らせる。
「褒めてもなんも出ないけど?」
「……バレた?」朝陽はにやりと笑って蓮の数歩先に躍り出た。「神さま仏さま蓮さま、どうかここにいる哀れな学生をお助けくださいっ!」
自分の顔の前で手を合わせた朝陽に、やっぱり、と蓮は呆れた顔を向ける。
「ウーン、内容によるけどなに、課題?」
「サトセンのやつ! 先週の授業のレジュメさ、保存し忘れたの。今週の課題やらないとさすがに単位危なくって」
あぁ、と蓮は納得した。サトセン、里山先生の授業だ。
「サトセンって、すーぐファイル削除するもんねぇ。いいよレジュメくらい」
「ほんと!?」朝陽は光が弾けるように顔を輝かせた。「このお礼は必ずするから!」
「お礼なんていいって。お互いさまだよ。帰ったらすぐファイル送るね」
「ありがとーっ、蓮!」
「わっ! あっちゃん重い重い!」
嬉しそうに表情をほころばせて飛びついてくる朝陽を受け止め、蓮は「もー、しょーがないなぁ」なんて、仕方なく笑った。
バス停から数メートル先にあるコンビニに入り、スナック菓子とお茶を購入したあと、「また明日ねー」と言って、二人は別れた。朝陽のアパートは向かいの道路を渡って少し先にあるが、蓮のアパートはコンビニの裏側にあった。
交通量の多い横断歩道を渡っていく朝陽の背中を見送り、踵を返したところで、蓮は歩きながらスマホを取り出す。
「あ、バイト何時からだっけ」
バイト先から明日のシフトの連絡が来ていた。蓮のバイト先は二つ。一つは飲食チェーン店で、これは朝からお昼過ぎまでの時間帯。その後は大学の授業を一コマ受けて、個人経営のこじんまりとした塾で講師のバイト。夕方から夜まで、小学生と中学生に勉強を教えていた。
ときどき、塾のバイトの後に別のバイトを深夜帯まで入れることもあるが、明日は予定に入っていない。
『明日の朝、大学いつ頃いく?』
いつもと同じ確認していると、画面の上方に通知が届く。朝陽からのメッセージ。蓮は返信をしようとアプリを開こうとして指を動かす。その時、また画面に通知が現われた。
『ごめん、連絡できなくて。本当にごめん』
「あ……」
メッセージ主の名前が優翔だと分かった瞬間、心臓がぐっと下に引っ張られたような気がした。いまさら。既読無視でもしておこうか――。
「わっ!」
スマホが手の中で震える。いきなりベルの着信音が鳴り響いて、驚きのあまり、思わず蓮はスマホを落としそうになった。
表示された名前は優翔だった。
出るか、出ないか。蓮が迷っている間にも、ずっとベルが鳴り続く。十五回ほど、いや、もっと鳴っていたかもしれない。それでも切れる気配がなくて、スマホは手のひらに振動を与え続けていた。
諦めて、指先を伸ばし、画面に触れる。
「……長廻ですけど、なに?」
精一杯の抵抗でそう告げると、耳元で息を呑む音がする。
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