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「ただいま」  家のドアを開けて淳也は言った。  静まり返った家の中から返事はない。今日も二人ともまだ帰ってきていないのだろう。たとえ誰からも返事がなくても、昔から淳也は家に帰った時は必ずただいまは言う事にしている。  淳也の両親はあまり折り合いがよくない。淳也が小さなころからことあるごとにケンカばかりしていた二人は、最近ではあまり近づきすぎないことでいい関係を保っている。おそらく二人とも本気で相手を嫌っているわけではないのだと思う。ただお互いついかっとなりやすく、すぐに売り言葉に買い言葉が出てしまう似たもの同士だというだけで。  距離感は大事だ。それを誤ると、人と人はすぐに上手くいかなくなる。  洗面所でタオルを一枚被ってリビングの電気をつけた。テーブルの上には淳也と父のための夕食の準備がしてある。  コップの下においてあるメモを手に取る。 「今日はフラダンスの日か」  二人の距離を保つため母は日々習い事にせいを出し、父は仕事に没頭している。  それでも淳也は自分がちゃんと愛されていることを知っているから、別に辛くはない。こうやってちゃんと食事の用意はしてくれるし、顔を見れば淳也の心配やどうでもいい話もする。学校だってなんだって、不足を感じることはない。だから平気だ。  急に寒気がしたような気がして淳也は身震いした。大した距離ではないが、濡れたままとぼとぼ歩いてきたのがいけなかったのかもしれない。 「とりあえずシャワー浴びよ」  自分に言い聞かせるようにつぶやいて、淳也はリビングを出る。  さっきからずっと館原のことを考えすぎて頭が痛い。とりあえず今は何も考えず熱いお湯ですべてを洗い流してしまいたかった。 ⚡︎  薄暗い部屋のベッドに沈んで、淳也は窓の外を眺めていた。  淳也の部屋の小さな窓からは四角く切り取られた小さな空しか見えない。折り重なった雲の隙間がわずかに光るのが見えた。音さえ聞こえない遠くの雷。聞こえるのはかすかな雨の音だけだ。  どうして。  もう考えたくないと思ったはずなのに、結局頭の中を巡るのは館原とのことばかりだ。  大雨の中で館原が下駄箱に走りこんできたところから、最後走り去るまでの会話を何度も反芻してみる。それでも館原があんなことをする理由がわからなくて、その度に淳也は頭をかかえる。  嫌がらせにしては手が込みすぎている。だいたい館原がそんな悪趣味なことをするようなタイプには思えない。でもだったらなんだ。普通キスは好きな人とするものだろう。館原が俺のことを好き? そんな馬鹿な。  だいたい好かれるにしても嫌われるにしても交わした言葉が少なすぎて、判断のしようがない。  あの束の間の時間で、一瞬でもいい奴だと思ってしまっただけに、苛立ちも戸惑いも大きい。 「なんなんだよ、もう……」  とりあえず起き上がった。  真っ暗な部屋の中で一人座っているのが急に馬鹿馬鹿しくなって、淳也は電気のリモコンに手を伸ばす。  不意に足元の鞄の中で何かが振動する音が聞こえた。ファスナーの隙間からモニターの光がもれる。バイブレーションの音は鳴りやまない。何かの通知じゃない。電話?  薄暗さに手こずりながらなんとかスマホを取り出すと画面には見知らぬ番号が並んでいた。すぐに電話は切れる。  「間違い電話かよ」  そう思ったとたん、またスマホが振動を始める。  どうしようか悩んでいる間に、また切れた。 「嫌がらせ?」  呟きが終わるまもなく、三度目の着信。意を決して淳也は通話マークに触れる。 「……もしもし」  相手は何も言わない。スピーカー越しにわずかに聞こえる衣擦れの音と画面の中で進んでいくデジタルの数字だけが、この電話の向こうにいる誰かの存在を伝えている。  いたずら電話か? 「もしもし」  少し語調を強めて繰り返した。 『……真崎』  低く響く、あまり抑揚のない声。間違えるはずがない。さっきまで散々頭の中を巡っていた声だ。 「っ、館原……」 『ああ』  鼓動が跳ねた。さっきまでの混乱がよみがえってきて、上手く言葉が紡げない。  館原も電話の向こうで黙っている。自分から電話してきたくせにどういう事だ。聞きたいことは山ほどあるはずなのに、淳也の口からでてきたのはとりあえずの疑問だった。 「お前、なんで、俺の番号」 『佐渡(さわたり)から聞いた』  そういえば、学祭委員の時に買い出しに行くときに番号も交換した気がする。 「……スマホ、持ってたんだな」  どうしても館原が毎日だれかと電話したり、LINEする様子が想像できない。 『さすがに持ってる。滅多に使わないけど』 「そっか……」  違う。俺が言いたいのは、聞きたいのはそんなことじゃなくて。  電話越しの奇妙な空白が苦しい。 「館原、お前どうして……」 『俺は真崎のことが嫌いだ』  沈黙を破って二人が口を開いたのはほぼ同時だった。 「は?」  予想外の言葉に、館原を問いただそうと回りだした思考が停止した。そんな淳也におかまいなしに、館原はまったくもって館原らしくない流れるような勢いで言葉を続ける。 『いつだって人の中心にいるくせに、それがなんか不自然だった。笑いたくもないのに笑って、無理して周りに合わせてるのがバレバレで、そういうのを見るたびムカついた。知ってるか。真崎が本心じゃないとき、顔がちゃんと笑うまでに一瞬間が開くんだ。なんでそこまでして群れの中にいたいのか俺には理解できない』  なんで、そんなことを言われなきゃいけないんだろう。 『だからできるだけ真崎のことは見ないようにしてた。それなのに気づくと視界に入ってるんだ。それもまたムカつく』 「ちょっ、お前は何が言いたいんだよ」  あまりにも身勝手な言い分に腹が立ってきた。  電話の向こうの館原が黙った。一体なんなんだお前は。  淳也は手探りでスイッチを探して蛍光灯を付けた。一気に部屋が明るくなって、まぶしさに目を細める。 『……俺は真崎が好きかもしれない』 「はい?」  思わずスマホを取り落としそうになった。 『俺は真崎が好きかもしれない』  館原の声が、もう一度同じ言葉を繰り返す。残念ながら聞き間違いではなさそうだ。それにしてもさっきと言っていることが真逆だし。いや、問題はそこじゃない気もする。 「なんで?」  思わず、そう聞き返した。 『嫌いなはずなのに、目で追ってる』 「ん? ちょっと待て。それが好きってことになるのか?」 『俺もまだよくわからない。でもたぶんこんな風に思うのは真崎だからだ。俺は気がつくといつも真崎ばっかり見てる』  それは確かに愛の告白のように聞こえた。 「お前、恥ずかしい奴だな」 『……すまん』  館原が謝ったことに少し驚くが、それでこのいたたまれなさが消える訳でもない。 「いや謝られてもさ」  それきり館原は口をつぐんでしまう。仕方なく淳也から切り出した。 「館原、お前男が好きな人?」 『いや』  それなのにどうして俺なんだ。別にそんな女の子ぽい訳でもない。確かに背は高くないが、どっからどう見ても男だ。まあたまに中学生には間違われるけれど。 「あ、あとなんであんなことしたんだ」  あのキスは一体何だったのか。  自分で切り出したくせに、館原の唇の冷たい感触がよみがえって、淳也は手の甲で唇をこする。 『キスのことか』 「っ、そうだよ」  館原は電話の向こうで何か考えるように黙り込んだ。 『……むかついたから?』 「ちょっと待て、まったく意味がわからない」  先ほどまでと違う意味で頭痛がしてきた。やっぱり館原の中身は宇宙人かもしれない。 『あの時、真崎は泣きそうだったのに笑っただろう』 「それは……」  しっかり見られていたらしい。 『別に泣きたかったら泣けばいい』 「あの状態で急に泣きだしたら俺、情緒不安定すぎるだろ」  まあ実際のところ、館原に痛いところをつかれまくって割と情緒不安定だったわけだけれど。 『でも嘘をつかれるよりいい』 「別に、嘘ついてるわけじゃないし」 『俺の前でそういうことはするな』  なんだそれ。あまりにも自分勝手なセリフに少し腹が立つ。 「むかつくから?」  どうせすぐにそうだとでも答えるんだろうと思った淳也の予想を裏切って、館原は思いのほか優しい声で言った。 『……心配だから』  心臓が跳ねる。 「っ、なんだよそれ!」 『いや』 「いや、じゃねえ」  顔が熱い。これが電話でよかったと思う。あの淳也の顔色をうかがうことにやたらと長けた館原にこんな顔を見られたら何を思われるかわかったもんじゃない。  スマホのスピーカーから、館原のかすかな息遣いが聞こえる。不思議だ。離れたところにいるのに、さっき下駄箱で話した時よりずっと近くに館原の存在を感じる。  って、何考えてんだ俺。自分の思考にまた淳也は赤くなる。  照れ隠しのようにわざと低い声で淳也は尋ねる。 「で、館原は俺にどうしてほしいわけ?」 『別に』 「別にってなんだよ」  あんなことをして散々人を振り回してその上電話までしてきてその答えはなんだ。 『別に。近づきたくなければそうすればいいし。俺のことホモだって言いふらすなり好きにすればいい』 「そんなことしねえよ!」  思わず淳也はスマホに向けて怒鳴っていた。こいつ人のことを一体なんだと思っているんだ。 『だろうな』  館原は当たり前のようにそんなことを言う。声が少し笑っていた。 「お前なあ……」  軽い脱力感に苛まれて、淳也は大きく息をつく。 『真崎は真崎の好きなようにすればいい』 「好きにって言われても困るんだけど」  【好きです付き合ってください】ならわかる。【好きですあなたはあなたの好きなようにしてください】ってなんだ。意味不明すぎる。 『俺も好きなようにする』 「ちょっと待て、好きなことってまたさっきみたいなことする気なのか?」 『さっき?』  ごく普通の調子で館原が問い返す。どうやら本気でわかっていないらしい。 「だから、そのキスとか……」  それを自分で口にしてしまうと、改めて現実を突きつけられるようでなんともいたたまれない気分になる。 『ああ。真崎が嫌ならしない』 「……ぜひそうしてくれ」  電話の向こうで館原が少し笑った気配がした。  緊張と弛緩の後に訪れる束の間の沈黙。不思議なことに、相変わらずそれは居心地の悪いものではない。  静かな雨の音を聞きながら次の言葉を探す。  淳也が何か言うより先に口を開いたのは館原だった。 『それじゃあ』  今にも電話を切りそうな言葉に焦る。 「ちょっ、待てよ。まだ何も解決してない」  勝手にあんなことして、柄にもなく電話してきたかと思えば嫌いとか好きとか言いたいことだけ言って。じゃあさようならって言われても困る。 『解決ってなんだ?』  当たり前のように問い返されて気づいた。 「それは……」  告白されて、それが解決するということはつまり何かしらの答えを淳也が館原に返すことだと。  それは困る。非常に困る。  スマホを持つ手に、なんだか変な汗をかいている。 『それは?』 「……なんでもない」  『そうか。それじゃあ』  今度こそ二の句を継ぐ暇を与えず、館原は電話を切りやがった。 「おい」  軽快に通話終了の音が流れて、電話の向こうは完全に無音になる。  スマホを放り出して、淳也はベッドに倒れこんだ。なんだかどっと疲れた。  ただなんとなくわかった気がする。たぶん館原は自分のやりたいことをやっているだけだ。言いたいから言う。言いたくないから黙る。したいことはするし、そうじゃないことはしない。授業をさぼるのもきっとそんな理由だ。  何をするにも理由をつけて、相手の思惑だとかを探ってぐるぐる考え込んで動けなくなってしまう淳也とは正反対だ。 「動物かよ」  あんな生き方は淳也にはとうてい無理だが、正直少しうらやましい気もする。 「あー、もう……」  もういいや。考えてもわからないことを考えるのはやめよう。  目を閉じて、ゆっくりと開く。  窓の外の光に合わせて天井がかすかに明滅する。  淳也はベッドから起き上がって窓を開ける。  音すら聞こえない遠くの雷は、時々思い出したかのように夜空を明るく照らした。  あの雷雲が戻ってくればいい。戻ってきてこの街の上で盛大に落ちればいい。  そうすれば館原はまたあのでかい図体を縮こまらせておびえるのだろうか。  鬼の形相でおびえる館原の様子を想像したら少し胸がすっとしたような気がして、淳也は声を出さずに小さく笑った。                END
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