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「あれ」  重い足取りで2年生の下駄箱にたどり着いた瞬間、外が光ったような気がして真崎(まさき) 淳也(じゅんや)はどんよりとした鉛色の空を見つめた。  稲妻が空を切り裂いて走る。しばらくして腹の底に響くような雷鳴。 「まだ4月なのに……」  淳也は空を見上げたまま立ち尽くした。  日暮れにはまだ早い時間だというのが信じられないほど暗く低い空は、絶え間なく明滅を繰り返している。心なし空気も電気を帯びているような、肌がぴりぴりする感覚。  次の瞬間、まっすぐな雷が遠くの鉄塔に落ちるのが見えた。数秒遅れて轟音が響く。  いつもと違う色をした空と雷音に包まれた世界は、映画か何かの中のようで妙に現実感が薄い。  時期外れの春の雷に淳也はしばらく時を忘れて見入った。  雨粒が一つ校庭を叩いた。それはあっという間に視界を白く染めるような豪雨になる。 「あーあ……」  鞄から折り畳み傘を引っ張り出そうとして、やめた。こんな雨じゃ気休めにもならない。  淳也はため息をついた。  何もかも上手くいかない。  事の始めは友人の(さとし)とその彼女の牧野(まきの)の痴話ゲンカだった。どちらともまあまあ仲のよい淳也が成り行きで双方の相談に乗ることになり、板挟みの状態で1週間。  牧野から部活の後で相談したいことがあると言われて、やっと仲直りする気になったのかとほっとしたのも束の間、さんざん愚痴を聞かされた後に言われた言葉は『私たち付き合っちゃおうか』だ。  まず間違いなく智に対する当てつけなんだろうが、利用されるこっちはたまったもんじゃない。正直な気持ちは勘弁してくれだが、それをそのまま口にするのは淳也の最も苦手とするところだ。  無意識のうちに牧野が傷つかないように当たり障りのない言葉を探して、出てきたのは『もう少し考えてみれば』なんてつまらない台詞だった。対する牧野の返事は『淳也こそちゃんと考えてよ』だ。  一体何を考えればいいんだ。淳也にとって牧野は友達の彼女で、そこそこ話せる同級生。それ以上でもそれ以下でもないのに。  風向きが変わったのか、ざあっと足元まで雨が降りこんで来て、慌てて一歩後に下がった。  学校から淳也の家までは歩いて15分ほど。見渡す限り水田に囲まれた長閑さが売りの片田舎の高校の周りには、雨宿りができそうな施設はほとんどない。途中で降られたらそれはそれで悲劇だ。  あの時もし牧野と一緒に帰っていれば雨に降られる前に家に着いたかもしれないが、そんな恐ろしいことはごめんだ。  結局のところ、帰り際に思いつめた顔の牧野に捕まった時点で手遅れだったのかもしれない。  もう一つため息をついて、淳也はこのままここで雷雨をやり過ごすことに決めた。  雷雲はだんだん近づいているようで、光と音の間隔は次第に短くなっている。  また強く空が光った。 「いち、に、さん、し、ご、ろく……」  轟音。  9秒だからだいたい3キロというところか。中学校の理科を思い出しながら雷雲までの距離を計算して、不意にむなしくなる。 「なんだかなあ……」  明日、智に会ってどんな顔をすればいいんだろう。  一番手っ取り早いのはあの二人がさっさとよりを戻してくれることだが、あのこじれ具合だとどうなることやら。正直もうどうなっても自分を巻き込まないでくれればかまわない。そんな投げやりな気分になってくる。けれど、それでもまた智や牧野に相談されたら、なんだかんだと自分は懲りもせず話を聞いてやるのだろう。  仕方ない。たぶんこれはもう自分の性分なのだ。  不毛な思考を振り払うように頭を振って、淳也は蛍光灯のスイッチを探した。  こんな暗いところにいるから気持ちまで暗くなるんだ。  なぜか中途半端に高いところにあるスイッチを背伸びをして押す。蛍光灯はかすかに唸るような音をたてて点灯した。切れかけているのか、なんとなく薄暗い。  季節外れの雷に遭遇した感動も薄れてきて、淳也はぼんやりと校庭を眺めた。 「あれ?」  雨に霞んだ校庭の隅で何かが動いたような気がした。白くにじむ景色の中に目を凝らすと、それが黒い人影だと気づく。だんだんこちらに近づいてくる。おそらく学ランを来た生徒だ。そいつが同じクラスの奴だと気づいたのは、彼が下駄箱の中まで走りこんで来てからだった。 「……館原(たてはら)」  館原 侑士(ゆうし)は雨に濡れた前髪をめんどくさそうにかき上げて、元々きつい印象の目元を不機嫌そうに歪めた。  クラスの背の順で前から二番目の淳也より、館原は優に頭一つ分以上背が高い。隣に立つとその大きさがよくわかる。まだ成長期が来ていないだけと言い張るのにも、最近少し疲れてきた淳也からすればうらやましいかぎりだ。 「よっ、館原」  突然声をかけられて館原は訝しそうに淳也を見る。  館原の瞳は黒い。それもなんだか底が見えない深い黒だ。じっと見下ろされると次第に落ち着かない気分になってくる。  しばらくして、ぼそりと館原が口を開いた。 「……ああ」  淳也は思わず目を見開いた。館原が返事をした!  館原は社交的な性格の淳也にとっては珍しく、まともに話したことのないクラスメイトだ。極端に無口というか、たぶんあまり人と関わりたくないタイプなのだろう。彼はクラスどころか学校中の誰ともとんど口を聞かない。連絡事項とか、どうしても答えなければいけないときは気が向けば返事くらいはするが、時にはそれすら無視する。しかもそれは生徒だけではなく相手が教師でも同様だった。  一方で言いたいことは恐ろしくはっきり言う奴でもある。なんせ告白してきた上級生に向かって『俺はあんたに興味ないから無理』と切り捨てたという伝説がある。  その上館原は遅刻ばっくれの常習犯で、二時間目はいたのに、三時間目には消えていることもしばしばだ。去年は何人もの教師が館原を更生させようと説教や説得を試みたがその全てを徹底した無言で跳ね返した。そのうちに誰もが館原はそういう奴だと諦めて、必要以上に近づかなくなった。  だから声をかけても、まず答えは返ってこないだろうと思ったのに。 「ど、どうしたんだよ、こんな雨の中」  動揺しすぎて少し噛んだ。  館原はまっすぐに淳也を見たまま、低い声で答える。 「……忘れ物を取りに来た」 「……ああ、そっか」  予想外に会話が成立してしまった。  ぎろりと館原が淳也をにらむ。  何かまずいことを聞いてしまったのだろうか。この長身から見下ろされると、正直少し怖い。 「なんで」 「えっ?」 「知ってるんだ。俺の名前」 「ああ、だって同じクラスじゃん。去年も今年も」  おそらくクラスが違っても、ある意味有名人の館原を知らない人間は少数派だと思うが、さすがにそこは空気を読んで黙っておく。  館原は少し考えるように眉根を寄せる。 「俺はクラスの奴らの名前なんか知らない」 「だろうね」  あまりにも館原らしすぎる言葉に、ほんの少し力が抜けた。 「何がおかしい?」  無意識に少し笑ってしまったのかもしれない。慌てて淳也は表情を引き締める。 「いや別におかしくはない。ないけど、館原もまともにしゃべるんだなと思って」 「は?」 「だって館原いつもしゃべらないじゃん。だから少し驚いただけ。お前もちゃんと人間だったんだなーってちょっと安心したっていうか」  ついいつもの調子で軽口を叩いてしまった。館原は怖い顔のままで固まっている。まさかいきなり殴られたりしないよな?  前に一度館原が他校の柄の悪い生徒に絡まれているのを目撃したことがある。その時は3対1だったけれど、淳也が誰か人を呼びに行こうか考えているうちに、館原はあっという間に、まるでマンガみたいな強さで3人とも伸してしまった。  一方で平和主義の淳也が最後にまともな殴り合いの喧嘩をしたのは保育園の年長さんの時だ。かなうはずがない。  無意識に淳也は一歩後ずさる。  その時館原の口からふはっと息がこぼれた。  一瞬何が起こったかわからなかった。口元を押さえる館原が小さく笑ったのだと理解するには少し時間がかかった。 「ちゃんと人間だったって、俺は一体なんだと思われてるんだ?」  唇の端を持ち上げた表情は笑顔というにはやや剣呑だったけれど、あの館原が確かに笑っている。次に押し寄せて来たのはちょっとした感動だ。果たして全校生徒の中で館原の笑った顔を見たことのある人間がどれだけいるだろう。  嬉しくなってつい調子に乗ってしまう。 「馬鹿なうわさならいくらでもあるぜ? サイボーグだとか、実はこう頭がパカって開いて中にちっちゃい宇宙人が入ってるんだとか、ヤクザが作った鉄砲玉型ロボットだとか、ほかには江戸時代からタイムスリップした侍だとか。あとこの辺は人間系だけど組長の息子とか、むしろ本人がヤクザとか、スパイとかホストとか……」  それを聞いて今度こそ館原は吹き出した。腹を押さえてひいひい言ってる。意外だ。館原がこんなに笑い上戸だったとは。 「お、おい館原、大丈夫か?」 「……っ、大丈夫、だけどなんだよ。そのラインナップ。しかも鉄砲玉型ロボットって。すげえドラえもんっぽいけど、それは人型なのか? それとももしかして銃弾の形なのか?」  館原はなんだか妙なポイントに爆笑している。 「お前のツボはそこなの?」  淳也は呆然としたまま館原の笑いの発作が収まるのを待った。  こうやって笑っていると、いつもにらんでいるような目元の険が取れて、ずいぶん印象が変わる。目つきとあの妙な威圧感さえなければ館原は結構いい男なのだと思う。背が高くてがっしりしている。顔も今時のイケメンとはちょっと違うけれど、鼻筋の通った男っぽく整った顔立ちをしている。  そういえばあの伝説の事件で、多くの女子に嫌われた館原だが、未だに一部には根強いファンがいるらしい。 「いい事教えてやる。俺は間違いなく人間だし、俺の親父はヤクザじゃなくて、普通の公務員だ」  やっと発作が収まってきたらしい館原が真顔でそんなことを言う。これは冗談なのか?  笑うべきか悩んでなんとも中途半端な顔になった淳也に、館原はぽつりと言った。 「お前変な奴だな」 「は? ってか俺?」  どちらかといえばそれはこちらのセリフではないでしょうか。  さっきまでの笑顔は影を潜めて、館原はいつもの相手をにらみつけるような怖い顔だ。もしかしたら怒っている訳ではなく、これが館原の素の顔なのかもしれない。 「なんで俺に話かけた?」 「なんでって、同じクラスの奴に話かけるのになんか理由がいるのか?」  見ず知らずの人間ならまだしもクラスメイトだ。ましてやこんな雷雨の中しばらくここで雨宿りは必至なのに、声もかけず二人黙ってるいる方が気持ち悪い。  館原は黙ったまま淳也をじっと見つめている。またあの目だ。  居心地の悪さを感じながら、淳也は言葉を続ける。 「まあ、なんていうか、まさか返事が返ってくると思わなかったからちょっと驚いたけど」 「……返事がないと思ったのに声をかけたのか?」  真顔で問い返されて、淳也は不貞腐れる。 「悪いかよ?」  次の瞬間館原がかすかに笑った。さっきとはまた違う、柔らかい笑顔。 「いや。でもお前、やっぱり変な奴だな、真崎(まさき)」  こいつは次から次へと人を驚かせるのが趣味なんだろうか。 「……っ館原、さっきはあんなこと言ったくせになんで俺の名前知ってんの?」  淳也はまじまじと館原の顔を見上げた。まっすぐに二人の視線がぶつかる。 「真崎は目立つだろ」 「いや、館原ほどじゃないし……」  一つ鼻を鳴らして、館原は続けた。 「そんなことない。真崎はいつも人の輪の中心にいる」  無造作に投げかけられた言葉に、小さく心臓が跳ねる。  淳也は曖昧に笑った。  中心になんかいない。ただ淳也はいつもできるだけ輪の中から外れない努力をしているだけだ。そんなことを言ったら館原はどんな顔をするだろうか。この人付き合いとか、自分の立ち位置とかそんなものにまったく興味がなさそうな同級生は。 「そういえば、忘れ物取りにいかなくていいのか?」  淳也はわざと明るい声で言った。 「……ああ」  館原は淳也から視線を外すと、すたすたと歩き出した。  大柄な後姿が遠ざかっていくのを見て淳也は無意識に肩の力を抜いた。  館原は自分の下駄箱まで行くと、何かを取り出して、リュックの中に放り込んだ。忘れ物は意外と近くにあったらしい。  中身が何か聞いてみようかと思ったが、用事を済ませた館原は、まるで淳也から興味を無くしたかのような態度で目の前を素通りしていった。  館原が歩いた後に点々と水跡が残る。あの雨の中を歩いて来たのだ。そりゃパンツの中まで水浸しだろう。  館原は何か考えるようなそぶりをしてから、学ランを脱いだ。雨に濡れたシャツが思ったより厚い胸板に張り付いている。ちゃんと鍛えられた大人と遜色ない身体。小柄なせいか、いつまで経っても中学生に間違えられる淳也とは大違いだ。  そういえば館原は中学時代に剣道をやっていたと聞いたことがある。この一本筋が通ったような姿勢のよさもそのおかげなのだろうか。  館原が一つ小さなくしゃみをした。 「寒いのか?」  思わず声をかけた。  館原は僅かに目を見開いて、小さな声で答える。 「別に」  淳也は鞄を漁ってウインドブレーカーを取り出した。所属するバトミントン部のものだ。鼻を近づけて匂いをかぐ。大丈夫、たぶんくさくはない。 「着る? 多少汗くさいかもしれないけど、ないよりはマシだろ?」 「いらない」  即答されてしまった。淳也は小さく肩をすくめる。 「そっか、ま無理にとは言はないけど」  ウインドブレーカーを丸めて、くしゃくしゃっと鞄の中に戻す。  まあ、あの館原だもんなあと思った。ここまで会話のキャッチボールが続いたでも奇跡だ。  雨の音が響く。  先程よりは多少雨脚は弱まってきただろうか。それでもまだ折り畳み傘で踏み出すにはちょっと勇気がいりそうだ。  不意にぽつりと館原の声がした。 「……濡れるだろ」 「え?」  館原は濡れた学ランをリュックの中に押し込みながら答える。。 「それ」 「ウインドブレーカー?」  黙ったまま館原は頷いた。  不器用すぎる気の使い方がなんとなくおかしくて、自然と淳也は微笑んでいた。 「なんだ。そんなの気にすんなよ。どうせ持って帰って洗濯するだけだし。汗臭いのが気になるっていうなら話は別だけど」 「そういうわけじゃない」 「じゃあ、はい」  憮然とする館原に、淳也はウインドブレーカーを押し付けた。 「風邪ひくよりはましだろ?」  にやりと笑って言ってやる。  しばらく何か言いたそうにこっちを見ていた館原は、そのうち観念したように小さく呟いた。 「……悪い、借りる」  なんだこいつ。いい奴じゃないか。  館原は黙ったまま淳也のウインドブレーカーに袖を通した。これからまだ背が伸びるはずと多少の期待を込めて大き目を買ったから、淳也にとっては袖の長すぎるそれも館原には少々窮屈そうだ。袖口からは手首は丸見えで、ファスナーもきちんと閉まりそうにない。それでもなんとか羽織ることはできた。  館原は小さく息をつくと、傘立てに腰を下ろした。錆びた傘立てが音をたてて軋む。 「やっぱでかいな館原。うらやましい」 「うらやましい? なんで?」  黒い瞳が淳也を見上げる。館原が座ったおかげで、さっきまでと身長差が逆転している。なんか少し変な感じ。 「そりゃ小さいよりでっかい方がいいだろ」 「そうか?」  淳也は思わず目を吊り上げる。こいつ自分が無駄にでかいせいで、高身長のありがたみをぜんぜんわかっていない。 「小さいと色々不便だろ。高い所のもの取ったりとか。あ、あと絶対身長高い方が女子にモテる」  館原はどうでもよさそうに傘立ての上で長い足を組んだ。 「モテたいのか?」 「いや、モテたいかモテたくないかって言われたらそりゃモテたいけど。お前はどうなんだよ」  勢いで問い返した。 「別にモテたくはない」  ああ、そうだ。こいつは伝説の館原だった。 「お前に聞いたのが間違いだった……」  こいつはほとんとの女子を敵に回しても、それでもまだファンがいるような男だ。  館原は一つ鼻で笑うと、黒い目でじっと淳也を見る。 「真崎は彼女が欲しいのか?」 「そりゃ欲しいだろ。欲しいに決まって……」  断言しようと思ったところで、ふと智と牧野のことが頭をよぎった。 「なんだ?」  急に口ごもった淳也を館原はいぶかしげに見つめる。  少なくともあの二人、淳也が思い描く幸せなカップルには見えない。たとえ仲がいい時はどれだけバカップルだとしても、だ。  淳也は一つ息をついて、話を戻すことにした。今はあいつらのことを考えるのはやめよう。 「いや、なんでもない。そもそも彼女の話じゃなくて、でかい方がいいって話だろ。他にもいろいろあるじゃん。背が高いほうが有利なこと。スポーツもそうだろ。バレーとか、バスケとか」 「……ああいうのは嫌いだ」  心底めんどくさそうに館原は顔をしかめる。そういえば体育の授業で館原を見ることはほとんどない。この協調性のなさだ。確かに集団競技に向いているようには見えない。 「でも、もったいない。館原のガタイがあればもっと色々出来そうなのに」  淳也は一歩前に踏み出して、館原の隣に腰を下ろした。  さっきまで見下ろしていた館原の顔が、また見上げる位置に戻る。  二十数センチ上にある男前の顔は今まで見た中で一番驚いた表情をしていた。 「……っ、何」 「館原、ちょっと手貸して」 「はあ?」  淳也は自分のウインドブレーカーに包まれた館原の腕を持ち上げて、すぐ隣に自分の腕を伸ばした。  当たり前だけれど、全然長さが違う。大人と子供とまでは言いたくないが、触った感じでしっかりと筋肉の存在を感じる館原の腕と比べると、筋肉が付きにくい体質の淳也の腕はやはり少々貧弱だ。 「な?」 「なんだよ」  威嚇するように目を細めて館原が言う。さっきまでなら黙って逃げ出したくなったであろう表情も、たぶん怒っているわけではないことに気づいてしまった今の淳也にはさほど怖くない。 「腕の長さ、ぜんぜん違うだろ。腕も足もさ、当たり前だけど身長高い奴の方が長いわけ」 「……ああ」  館原はそっと目を伏せる。 「俺、バドミントン部なんだけど」 「知ってる」 「え、なんで知ってんの? って、ああそっか」  館原が着ているウインドブレーカーの胸元には学校名と英語でBadminton Clubの文字が刺繍してある。 「バドミントンだってさ、背が高くて手足が長い奴の方が有利だ。スマッシュだって高い位置からの方が決まりやすいし、シャトルを追いかけてコートの端にダッシュする時にさ、あと一歩ってところで届かないと、もうちょっと自分の足や手が長かったらなあって思うわけ。だから俺は館原のその身長と手足の長さがうらやましい」  わかったかとばかりに館原の顔を見上げる。けれど館原は居心地が悪そうに腰を浮かせて、狭い傘立ての上で淳也から距離を取ろうとしていた。 「あれ、館原お前もしかして人に触られるのが苦手な人だった?」  ついテンションが上がって近づきすぎた。相手は人嫌いの館原だ。慌てて立ち上がろうとする淳也を、館原の声が制した。 「違う」 「違うの?」  手を伸ばせば届きそう距離にある、館原の顔をじっと見つめる。館原は唇をきゅっと引き結んだ、むっとした顔のままぶっきらぼうに言った。 「濡れる」 「え?」 「だから、あんま近づくと真崎まで濡れる」  目を伏せて、館原は淳也から視線を逸らす。 「……館原」  呼びかけても返事はないから勝手に続けた。 「お前、いい奴だなあ」  しみじみ言うと、館原は弾かれたように顔を上げた。 「はあ? なんでそうなるんだ」 「別に。そう思っただけ」  真っ黒の瞳でぎろりとにらまれるけれど、耳の端がほんの少し赤い。 「なあ館原。もしかして照れてんの?」  もしかしたら館原は褒められることに慣れていないのかもしれない。 「……うるさい。お前、もう黙れ」  押し殺した声の中に、かすかな苛立ちを感じて淳也はこれ以上館原に絡むのをやめた。別にケンカをしたいわけじゃない。それこそ本気でケンカになったら絶対に淳也が負ける。  一つ大きく息を吐いて、淳也は傘立てから立ち上がった。 「雨、止まないな」  ほとんど独り言のようにつぶやいた言葉には、当たり前だけど返事はない。淳也はそれ以上言葉をかけるのはやめた。  薄暗い蛍光灯の下に沈黙が流れる。  こういう時、いつもなら何か言わなきゃと焦るのに、今は不思議と嫌な気分にならない。相手が館原だからだろうか。館原はたぶん話したいときは話すし、そうじゃなければ黙る。きっと無理に言葉を探したり、相手に合わせてもらって喜んだりする奴じゃない。  だから今は黙っている方が自然だ。  館原は仏頂面で、まるでそういう顔の置物のように黙り込んでいる。  することもないので軒の下の雨のかからないところまで出てみる。淳也はぼんやりと排水溝に流れている濁った雨水を眺めて過ごした。
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