0人が本棚に入れています
本棚に追加
2 下北啓一郎の過去
下北啓一郎は1937年、岐阜の飛騨地方で生まれた。
江戸時代は幕府の天領として栄えた飛騨高山も、20世紀初頭は木材くらいしか算出できる商品がなく、人びとはすこぶるつきの貧しい生活を強いられていた。
下北啓一郎の父は地主に仕える小作人で、収入はつねに雀の涙、とても六人の子どもたちをまともに養えるだけの稼ぎはなかった。一家の誰もが生まれてこのかた一度たりとも満腹になったことがなく、収入の激減する冬ともなれば一日一食が当たり前であった。
子どもたちは10歳になるまでには全員が学校を辞め、貴重な労働力として田畑へ投入された。読み書きそろばんができるからといって、稲や野菜を育てるのがうまくなるわけではない。
1945年に戦争が終わり、農地解放により小作人の地位は向上したけれど、だからといってすぐさまみんなが平等に金持ちになれるわけではなかった。大半の農民は相変わらず細々と、猫の額ほどのスペースで自給自足に近い生活を強いられていた。
下北啓一郎は中学を(田畑の管理のためにほとんど欠席してはいたが)なんとか卒業し、地元の林業従事者となった。朝は午前4時から山へ入り、終わるのは早くても17時前後、つねに危険ととなり合わせで収入も低かった。
「なあナギちゃん」23歳になった下北啓一郎は、幼なじみの金森凪沙に愚痴らずにはいられなかった。「俺、こんなとこおん出てやるって言ってたやんか?」
「いつもそう言ってるやん。ホントはそんな気ないんやろ?」
凪沙はこの手の寒村には不釣り合いな器量よしであった。戦後の慢性的な物資不足で着るものといえば継ぎはぎだらけの野良着一張羅だけだったけれど、彼女の笑顔は見る者すべての目尻を下げさせるのだった。
「今度ばっかりは出てく。こんな村におったら未練ばっか残って人生卒業できんようになる」
「この村にもいいとこいっぱいあるやん」凪沙は稲穂の揺れる畦道をそぞろ歩いている。「それに啓一郎くんが出てったらあたし、寂しいやん」
ちょうど山間に太陽が沈んでいくところであった。逆光のせいで彼女の表情はシルエットになっていた。
啓一郎の決意は揺らいだ。このまま村にいてなにが悪い? 彼女のことは好きだし、いまの言動から察する限り、向こうも満更ではないらしい。慎ましやかだけれど幸せな家庭が築けるかも。しかしいま出ていかねば一生後悔する。それは未練となって晩年の人生を居心地の悪いものにするだろう。
彼は翌日、家族と凪沙に短い書き置きだけを残して飛騨から出奔した。
* * *
その後、啓一郎は復興著しい東京へ裸一貫で乗り込み、まずは社員三名の零細建設会社でノウハウを学んだ。親方は朝から一升瓶を手放さず、サボっていると難くせをつけては部下をぶん殴る人間のクズの見本のような男だった。啓一郎はいっさい反抗することなく暴行に耐え、ひたすら技術の習得に励んだ。
2年間の苦行ののち、盗めるものをすべて盗んだと判断した彼は、いつものように部下をいびりにきた親方の足を払ってすっ転ばせ、馬乗りになった。お礼参りの時間だった。顔が腫れあがって視界がふさがるまで親方をぶん殴り、彼はそのまま二度と出社しなかった。
自分の会社を作るときがきたのだ。なんといっても東京大空襲で首都は一面焼け野原になっている。建てるべき家屋はいくらでもあった。需要は無限に近かった。
彼は無限の需要に応え続けるだけでよかった。さまざまな苦難はあったけれど、下北工務店はビッグバン宇宙のように膨張していった。啓一郎はいまや日本で知らぬ者のない、戦前生まれの代表的な経営者であった。地位、名誉、金、名声、その他人が望むすべてを彼は手に入れた。
それでも今年85歳になる彼の外見は、20代のままであった。下北啓一郎は人生を卒業できない落伍者だったのだ。
最初のコメントを投稿しよう!