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1 卒業できない男
会長室から命からがら抜け出して個人経営の薄汚い居酒屋へしけこみ、アルコールをきこしめす。ここのところ習慣になりつつある。呑みでもしなけりゃやってられない。
「よう旦那、ビールでいいですかい」ねじり鉢巻きと魚の血で汚れた前掛けを粋に着こなした徳さんが、にこやかに応対してくれた。「最近よくきてくれるね。なんであんたみたいな大物がうちなんかに?」
店内は点滅をくり返す笠電球、表面が破れて綿が見えているスツール、油染みの浮いた四人がけのテーブルという構成だった。ここだけ昭和中期にタイムスリップしたようなあんばいである。わたしが若いころはこういう店ばかりだったものだ。
「金持ちだからって、毎日三ツ星レストランで20世紀初頭のワインを呑まにゃならん法があるわけじゃないからね。こういう店のほうが落ち着くんだよ」
無骨なビール瓶からジョッキに手酌して、半分ばかり一気にあおった。苦みが口中に広がり、一日の疲れがしみ出していくようだ。
「旦那、いまおいくつなんです」板前は関心を隠そうともしていない。「実年齢のほうですがね」
「こないだ85になったばっかりだよ」
驚いたとしても、それを顔には出さなかった。「するてえと、旦那も人生を卒業できない口なんですかい」
「そういうことになるね」
「いってえ旦那ほどのお人がこの世になんの未練があるってんです。一代であの下北工務店を築き上げたってのに、それ以上なにが必要だってんですかい」
「それがわかれば苦労はせんよ」
「なんであるにせよ、いまのお姿のころにあった出来事に関係してるってことだけはまちげえねえんでしょうな。――肉体年齢は何歳くらいなんです」
わたしは肩をすくめた。「20代前半くらいだと思うよ。もう60年以上もこの姿のままさ」
徳さんはまじまじとわたしを見つめている。「たまげたね、どうも」
残りのビールはチビチビとゆっくり呑んだ。ビールは明らかにそこらの酒屋で仕入れたものだったが、不思議とこの店で呑むとちがった趣がある。店はわたしのような懐古趣味の老人でそこそこ埋まっており、誰もが在りし日の過去をアルコール片手に幻視している。
「応援してますぜ。早く卒業したいもんですな」
残りを一気に飲み干した。まるで足りなかった。「えいくそ、徳さんもう一杯くれ」
「旦那、もうのれんですぜ」徳さんに揺り起こされた。「また今度きてくだせえよ」
意味の通らない呻き声で答えた。「フムム……?」
「ぐっすり寝入ってましたぜ。あんまり強くないんならゆっくり呑まねえと」
夢を見ていた気がする。遠い過去の、故郷の夢を。
勘定を払い、東京の一等地に建てた豪邸へタクシーで帰宅した。
わたし以外誰も住んでいない、ただっぴろいだけの無機質な屋敷へ。
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