スコッチ、シングルの男

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スコッチ、シングルの男

 雷に打たれるって、こういうことをいうのかな、と隣に立つ人をぼんやり見上げながら梨花(りか)梨花は思った。  新宿のバー、「waxing moon」のカウンターで梨花は水滴まみれのジンライムのグラスをながめながら、今夜は不発だったな、もう帰ろうかと思ったところだった。  財布を出そうとバッグに手をのばしたそのとき、声をかけられた。 「となり、よろしいですか」  その艶のあるバリトンに、思わず腰がぞくりとした。おそるおそる見上げるとその人は切れ長の強い意志を持った黒い瞳で、梨花をじっと見つめていた。はじめて見つめあったその人。その瞳に囚われて目が離せなくなった。口を開くことも忘れて見上げていると、その人はさっさととなりにすわった。 「シーバスリーガルの水割り、シングルで。ジンライムのおかわり、たのみましょうか」  すっかり氷の溶けた梨花のグラスを見て、その人はいった。 「あ、いえ、これでけっこうです」  遊びなれているんだなぁ、と思った。スコッチのシングルを嫌味なく注文できるくらいには。年のころなら三十才とすこし。梨花より少し上。圭太と同じくらいだろうか。仕立てのいい濃いグレーのスーツ、おそらくセミオーダー。白いワイシャツ、紺のストライプのネクタイ。きっちりと肩幅のあったジャケットはそれだけでセンスの良さを感じる。袖からのぞくカフスの分量もちょうどいい。国産メーカーのハイクラスの腕時計。週一でジムに通っているような体つき。精悍な顔だちで、仕事もバリバリするんだろうな、という印象。  梨花は切れ長の目に滅法(めっぽう)弱い。その目に見つめられると、ほわほわと気持ちが浮いてしまう。とくにこの人は。切れ長の目だけでなく、体つきも顔の印象も、声もすべてが理想的だった。 「このあと、ごいっしょしても?」  水割りを半分ほど飲んだところで、彼はいった。一夜のお誘いである。梨花は舞い上がりそうな気持を必死で抑え込んで、冷静を装って答えた。 「いいわよ」  周囲がざわつく。彼女の今夜のお相手は彼か。 「トオルです」 「あ、わたしは」 「リリィさん。もちろん存じ上げてますよ」  トオルはにっこりと笑った。わたしも存じ上げていますよ、と梨花は思う。彼のことはこの店で何度か見かけた。いい男だと思った。わたしに声をかけてくれたいいのに、と思った。  その彼が、梨花ではない女に声をかけいっしょに店を出るのを、歯噛(はが)みしながら何度か見ていた。その彼がとうとう今夜、やっと声をかけてくれた。  彼は残りの水割りを一気に飲みほした。 「いきましょうか」  はい、というとトオルはふたり分の支払いを済ませる。カウンターチェアからおりると、梨花に手を差しのべた。その手をとって梨花もするりとチェアからおりた。そのまま男からも女からも羨望の眼差しを受けながら、店の中を抜けて外へ出た。    店を出ると、トオルはタクシーを止めた。梨花を先にのせて、あとから自分が乗りこむ。運転手に西口へ、とつげる。金曜の夜、混雑した道路を十分ほどかけてタクシーは西口に到着した。ここで、というトオルのことばにタクシーは路肩によって停車した。ハイグレードなシティホテルをすこし過ぎたところ。  清算をすませてタクシーを降りて歩きはじめる。梨花は数メートルの距離を保ってついていく。ホテルのエントランスを入ると、トオルはチェックインカウンターへ向かった。遅れてはいった梨花は、カウンターから見えるいすにすわる。  チェックインを済ませたトオルは、ちらりと梨花のほうへ目をやると、エレベーターへ向かった。それを合図に、梨花も立ちあがる。ほかの客に紛れて、同じエレベーターに乗る。  中層階で降りたトオルに続いて梨花も降りる。エレベーター正面のルームナンバーを確認するふりをして、エレベーターの扉が閉まってからトオルの後を追った。  追いついたのは、トオルがちょうどドアを開けたところだった。思わずくすりと笑みがこぼれた。梨花は笑ったまま、不審な顔をしたトオルに中に招き入れられる。 「ごめんなさい。なんだかタイミングがピッタリだなと思って」  梨花がそういうと、トオルもくすりと笑った。 「ほんとうだ。気が合うってことでいいのかな」  いいながら、梨花の腕を引いて抱き寄せる。 「断られなくてよかった」 「あら、自信満々だったのに」 「いや、きみに声をかけるのは、かなり勇気がいるんだよ」 「そんなことないのに。でもうれしいわ。声をかけてくれて」
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