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隠された執事服
最近、フィオナお嬢様が妙な遊びにハマっている。
遊びというか、遊ばれているのは執事である僕なのだが。そもそも、遊ばれること自体はよくあることなのだけど。
仕えてもう10年あまり。
数個しか変わらないお嬢様も、ようやく社交界デビューをする年齢になった。
当主である旦那様が娘の良縁を探すさなかで、伯爵家のお嬢様がこんな遊びをして許されるのか。
果たして僕の首は、いつまで繋がっているのだろうかと。
キリキリと痛み出しそうな胃に気を使いながら、僕はすり替えられた制服に身を包み、朝の給仕へと出向いた。
「おはようございます、お嬢様」
先に侍女達に身支度を整えられたお嬢様は、運ばれる朝食に目もくれず僕の姿をその瞳に映した。
にっこりと満足げに、僕に手招きをする。
「おはよう、クロム。やっぱり似合うわね、それ」
「ありがとうございます」
「毎日着ているからずいぶん馴染んだみたい」
「もう1週間以上も着ていますからね」
「そっちを制服にしてもいいのよ?」
「……いい加減に返してくれませんか、執事服」
「嫌」
会話の流れからは不釣り合いなほど可憐に笑うお嬢様に、僕は深くため息をついた。
侍女がティーポットで蒸らしていた紅茶をカップに注ぐ。
お嬢様がスコーンを手に取ったので、僕はクリームや季節のジャムをお嬢様の手近に引き寄せた。
柄頭に肘がぶつかり、カチャリと鳴った。
執事服ではありえないその引っ掛かりにいまだ慣れず、つい眉間に皺が寄る。
屋敷内で剣帯は付けなくてもよかった、と今更に思った。
「ふふ。すごい顔。外ではそんな顔しないでね」
「今日はお茶会でしたか……」
「そうよ。お迎えよろしくね? 騎士様」
「はぁ……。はい。仰せのままに」
ため息を隠すことはしない。
騎士服に身を包んだ僕は、お嬢様が望むままに職務を全うするだけ。
お嬢様が食んだスコーンはサクリと軽く、美味しそうな顔にふわふわとした甘い空気が漂う。
対して苦い顔の僕は、どんよりと重たい空気を放つのだった。
❇︎❇︎❇︎
仲の良い伯爵令嬢同士のお茶会は、街で一番人気のカフェテリアで催された。
優雅な仕草と言葉のやりとりで持ち得る情報を交換しあう。
今回の議題は『婚約者』だったようだ。
あのご令嬢はあのご令息とご婚約なさった、とか。
そのご令息はそのご令嬢に求婚中、とか。
歳の近いご令嬢方は、いずれ自分にやってくるだろうその存在に敏感になっている。
「フィオナ嬢。お迎えに上がりました」
無垢な花が並ぶその場に踏み込むのは、とても勇気がいる。
お嬢様ご要望の騎士を演じ、それらしい素振りをして、集まる視線に僕はようやく耐える。
「まぁ、クロム様。嬉しいわ」
お嬢様は頰を染め上げて僕を見上げた。
向けられる笑顔は本当に恋する乙女のようで、それが演技だとわかっていてもドキリとしてしまう。
差し出した僕の手にお嬢様が小さな手を重ね、席から立ち上がった。
そう全力でこられると、こちらも生半可に相手はできない。
僕は羞恥心を捨て、真剣にお嬢様に挑んだ。
お嬢様の手を持ち上げ、手の甲が僕の唇に触れる寸前まで引き寄せる。
見上げるお嬢様に微笑みかけ、穏やかに問う。
「ご歓談は楽しかったですか?」
「はい、もちろん」
「僕と一緒にいるよりも?」
「それは……」
「僕は君がいなくてつまらなかったな」
「クロム様……」
ちゅ、と手の甲に落とした。
お嬢様は慎ましくはにかみ、さらに染まる頰を隠さんばかりに目を逸らした。
そこでやっと傍観に徹して赤面しているご令嬢方に気づいたフリをして、僕は余裕の笑みを見せる。
「あとは二人きりの時に」と囁き、恭しくご令嬢方に一礼をすると、カフェテリアを後にした。
「……ご満足いただけたようで」
独特の振動が身体を揺らす、帰りの馬車内。
向かいに座るお嬢様は上機嫌で、歌い出すかのように弾んだ声を出した。
勢いづいて、きらきらと輝く瞳が近づく。
「見た!? 皆さんの反応!」
「注目の的でしたね」
「きっとただならぬ仲だと思われたわ」
「よろしくないことですね」
「クロムってば、本当の騎士様のようだったもの」
「恥を捨てた甲斐がありました」
「危ないです」とお嬢様の肩を押して座らせる。
熱が冷めないらしいお嬢様は、高揚したままにうっとりと宙を見た。
「かっこよかったわ」
「お褒めに預かり光栄です」
「本当にかっこよかったの」
「……ありがとうございます」
「ね、今も先程のように振る舞って」
「お断りします」
「いいじゃない。もう一度甘く囁いてみせて」
「お断りします」
一刀両断。
恥ずかしいことを恥ずかしげなく求めるお嬢様はめげることを知らず、僕が無視を決め込んでもその口は動き続ける。
「ちょっとだけ」「ほんのちょっと」「さっき二人きりの時にって言った」「ねぇ、言ったでしょ?」
狭い馬車内でぐいぐいと迫ってこられるものだから、逃げ場のない僕は目を合わさないように必死だ。
それでもやっぱり狭い馬車内なので、呆気なくお嬢様の懇願顔が目の前にやってくる。
ため息を吐くのも憚られる、その近さといったら。
観念した僕はお嬢様の顎を軽く掴んで固定し、耳元で囁くのだった。
「……フィオナ嬢。おいたが過ぎますよ。その口、自ら閉ざさないのであれば、塞いで黙らせましょうか」
固まるお嬢様。
顎を離しても微動だにせず、おかしな様子に僕も戸惑う。
やりすぎたか? と、顔を覗き込めば、お嬢様は口元を両手で押さえた。
上気する頰は桃色を通り越し、きらきらと輝く瞳は期待に満ちていた。
「塞ぐって、どうやって? 何で塞ぐの、クロム!?」
「………………はぁ」
ぐいぐいと迫り、身を乗り出したお嬢様は僕の隣に座った。
腕を掴まれ揺すられる僕はもう、脱力するしかない。
「やってみせて」なんて、どの口で言っているのか。本当に塞いでやろうかとさえ思ってしまう。
「……そういうのは、本当の婚約者様とやってください」
「本当の婚約者が私を愛してくれるかなんてわからないでしょ」
「お嬢様なら誰にでも愛されますよ」
「私にも選ぶ権利があるわ」
「どんな方がお好みですか」
「私のことをよく知っている人」
「それは——…………難儀ですね」
「そうよ。お父様が見つけるのは難しいと思うわ」
いつしか組まれた腕は、お嬢様から。
まっすぐな眼差しに、僕はただ、それに気づかないフリをする。
くすくすと笑うお嬢様はきっと、そんな僕を見透かしている。
「……縁談避けにと僕を連れ回すのも、ほどほどにしてください」
「バレてたのね」
長い付き合いですから。
滑り出しそうな言葉は、寸前で飲み込んだ。
「私のことをよく知っている人」に自分を紐づけるのは躊躇われた。
「おかしな噂がたてば、旦那様の耳に入ります。僕の首が飛びかねません」
「だから騎士様なのよ。護衛としてって言えばクロムは大丈夫」
「護衛なら執事で十分でしょう」
「執事ならただの付き人にしか見えないわ」
そう言って、僕にもたれるようにして身を預けた。
すり寄せられる頰はまるで小動物が愛を求めるように可愛らしく、自然と庇護欲をかき立てる。
この人は、自分が何をしているのかわかっているのだろうか。
抱きしめてしまいたいと伸ばしかけた手を引っ込めて、僕は深く息を吐いた。
「…………お嬢様、」
「今だけ。今だけだから、お願い」
ぎゅっと腕に抱きつかれる。
その柔らかさにも驚いたが、急に大人しくなったことにも驚いた。
そんな僕を知ってか知らずか、お嬢様は小さく、口の中でつぶやくように、ぽつりと本音を零した。
「…………もし、お父様にバレて、あなたが解雇されたら。その時は、私を連れ去って……」
カタン、と馬車が揺れた。
覚えのある振動は屋敷の敷地内のものだと気づく。
お嬢様は僕の腕から離れ、何事もなかったように向かいに座り直した。
「着いたわね」と言った表情はいつも通りで、真意を尋ね損ねた僕もいつも通りの執事を装う。
熱を失った片腕に、心を掻き乱されないように。決して自分を紐付けないように。
執事である僕と実ることはないのだからと、自らに言い聞かせた。
その翌日、タイミングを図ったように、婚約の申し入れがあった。
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