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座敷童子
慰霊の森を後にした夏稀は、最寄りからの電車に乗り、岩手県の県庁所在地。盛岡駅に脚を着いた。今宵宿泊する宿に向かう為、すぐさま駅前の乗り場からタクシーに乗り込んだ夏稀は、行き先を運転手に告げると、はからずともの疲労感にリアシートへ身体を委ね埋もらせる。雫石から盛岡市までは徒歩も含めるとたっぷり一時間以上。市街まで脚を伸ばせば安宿が豊富というのもあるが、夏稀の目的は、やや違っていた。“ 座敷童子 ” が出没する宿。それに出逢えた客人は、僅かばかりの幸せが巡ると言われているその宿に夏稀は興味をそそられていたのだ。
盛岡市天神町。天満宮に由来する場所でもあるこの土地は、オカルトが好きな鏡子への土産話にも、おあつらえむきだ。
『立烏の宿』
運転手に二千円程の料金を払い、天神町にある立烏の宿に到着する。この宿はオカルト染みた噂だけではなく、値段にそぐわない程の料理と、温泉が魅力との評判の宿だ。そう、あくまでも座敷童子は、話しのネタ程度のつもりだった。今宵の床に入るまでは。
仲居に案内され “ 桔梗 ” と名付けられた部屋の襖がゆっくりと引かれると、その先には座敷童子への感謝……先人の供え置きなのだろう。部屋の隅々にたくさんの人形や玩具が狭しと置かれていた。とうに日暮れたその部屋の雰囲気に、夏稀は僅かに杞憂を抱く……思いの外、想像以上だったのだろう。
『ま、まぁ。座敷童子はいい霊って言うしなっ、うん。さぁてと、それよりも』
夕飯の前に日中の散々な汗を流しておきたい夏稀は、早々に家族風呂に向かう。ここを選んだのは、これもあったからだ。一般の宿泊客に、自分の脚の事で気を使わせるのは心許ないのだろう。脱いだ衣服を入れた篭の上を浴衣で隠し浴室の扉を滑らす。家族風呂、いわゆる貸し切りなのだから乱雑でも構わないのだが、そこは夏稀の気質だ。対面しても身体を延ばせる程に広い湯船……それに胸元まで浸かり身体を癒す。格子に夜月を眺められるというのは、やはり格別なのだろう。しかし夏稀は一人旅の寂しさから、ふと鏡子を想った。
『鏡子ネェも一緒だったら楽しかったかなぁ。でも、その度に貞操奪われるのもだもんなぁ……しかし、竜さんの腕は本当にすごいな。こうして温泉にも入れるなんて』
細部まで繊細に動く夏稀の義足は、内部に加速補助の為にバッテリーが内臓されており、あらゆる合金部品が使われている。それは水中でまるで未来の工芸品のような輝きを見せていた。義足に見とれながら幻想のような雰囲気に浸っていた夏稀が突然『クスッ』と微笑む……どうやら腹の虫がうるさいようだ。
『さすがに来たなぁこりゃ。おし、飲むぞーっ』
格子窓に背を向け、立ち上がった夏稀のその艶肌は、思いの外の長湯ですっかり朱く染まっていた。浴衣をするりと羽織って食堂に入り、桔梗と標された座に腰を落とした夏稀は、目の前のそれに思わず声を荒げそうに口元を覆った。
用意された膳には、花巻白金豚のシャブシャブ、活アワビ。三陸のウニ、それと南武豆腐の揚げ出し。さらに岩手の地酒大吟醸の南武美人。これが飲み放題ときている。大枚を叩いたとはいえ、その豪華すぎる膳に夏稀は嬉したじろいた。
『いやいやいや、これ三人分位あるだろうてっ……ま、まぁ夜は長いしなぁ』
おもわず手を合わせる前に喉を鳴らしてしまった事に微笑しながらも、夏稀はその膳に箸を運ばせた。
『い、いかん。ちと調子乗って飲み過ぎ……ひゃっくっ』
過ぎる程に膳と地酒を堪能した夏稀は、千鳥気味で部屋に戻ると、疲れと酔いの微睡みに抗えず、早々に床へ入る。ソファーは論外だが、何故に畳に轢かれた旅館の布団はこうも良いのだろう、まるでベッドとは比較にならない心地よさだ。微睡みの中、そんな事を考えながら夏稀は眠りに落ちた。壁の時計は、至極当たり前に時を進める……丑寅を刻む頃、夏稀の意識がふと動き出した。
『……う~ん、鏡子ネェが言ってたなぁ。金縛りなんてのは、ほとんどが身体の疲労か脳信号のエラーだって……うにゃ、気にしない気にしない、寝よ寝よ』
微睡みの中、左脚に不自然な重さを感じたように思えたが、夏稀は疲労のせいだろうと気にも止めず再び目を瞑る……と、突然尋常ではない息苦しさが夏稀を襲った。
『ぐぅくっ、ぐっ、息ができな……っつ』
何かに首を締められ、まるで息ができない。虚ろな意識の際で夏稀の視界に飛び込んだのは、武士浪人のような男が自分の胸に股がり、首に爪を立てている様だった。夏稀は鏡子の言葉を思い出し、それを懸命に跳ね避けようとする。
『くっ……そ、そうだ。鏡子ネェが言っていた。気迫だ、自分のポテンシャルを上げるんだっ』
「くっ……うおあぁああっっ」
『っっはぁ、はぁはぁ……んぐっく、くそったれ……消えたか』
「お、御客様っ、如何がなされましたっ」
旅館中に響かす程の夏稀の仰声と共に “ その者 ” は姿を消した。が、余程だったのだろう。仲居が二人、血相を変えて客間の襖を覗いた。
「あ、あぁ~っ。す、すみません。寝てたら脚がつってしまってぇ。あ、アハハぁっ」
「そっ、大層な感じでしたので。御加減はもうよろしいのですか、御客様」
程なく夏稀が仲居に多少の心配りを渡すと、丁寧な挨拶と共に客間の襖は静かに閉じられる『ちっ、とんだ座敷童子だな。ふぅ……ん? っつ』喧騒に灯った明かりの姿見に視線が向いた夏稀は、不意に触れたその首元からの流血に驚愕した。
『そっ……こ、こんなの仲居さんが気がつかないワケが』
夏稀は咄嗟にバッグを漁ると、携帯電話を取り出し、鏡子に連絡を取ろうと試みる。が、そこから聞こえた声は、機械的なアナウンスだ。ダメ元なのは分かっていた事だが、鏡子の携帯電話は、常に電源が入れられていない。彼女が電源を入れるのは、自ら電話をする時だけなのだ。鏡子いわく。携帯電話の電波が、霊的な感度のノイズになってしまうらしい。夏稀は呆れたような様でしばし携帯電話を眺めたが、思い出したように再度通話ボタンを押した。
「あ、もしもし、安西先生夜分にすみませんっ。夏稀です」
夏稀が電話をかけ直した相手は、医師の安西だ。今はフリーランスだが、元々彼は織屋家の、つまり鏡子の専属医師だったらしく、鏡子の行動周辺に必ずと言って良いほどに繋がる人脈がある。夏稀が鏡子と連絡を取る時には、ほぼいつも安西の手を借りていた。安西に鏡子への伝言を頼み終えて、鼓動が少し落ち着いた頃には、すっかり酔いも冷めてしまったようだ。傷口を消毒した後、部屋の明かりを灯したまま床に目を瞑ったが、冴え澄んだ夏稀の神経は、朝方まで微睡みを許さなかった。
やがて夜が明け、宿の朝食を終えた後。夏稀は首の傷口を隠す為に薄めのストールを巻き、フロントロビーのソファーに腰を落とすと、とある人物を待っていた。そこに現れたのは立烏の宿の若女将、 比羽 瞳だ。しかし、夏稀が呼び出したのは女将。そう、所謂ここの責任者。が、現れたのは若女将と名乗る女性だった。一瞬夏稀は思案を捻らせたが、若女将の方が話しが通じやすいのではないかと思い直すと、用意していたメモを若女将に手渡す。この場所で言葉の堰を切らないのは、その内容が内容だけにという、一応の夏稀の気遣いであった。
盛岡駅中のフードコート。若女将を呼び出している場所だ。夏稀は敢えてこの場所を指定した。平日でも家族で賑わいを見せるような場所は、かえってひっそりな会話をするには適しているのだ。夏稀は、フードコート中央程の賑やかな席に腰を落とし、珈琲を飲みながら紫煙を揺らしている。と、待ち人が軽い会釈をし、正面の椅子を引いた。若女将の比羽瞳だ。宿で見た着物姿とは見誤りる程に洋風なその出で立ちに、夏稀は指先の紫煙を忘れそうになる。
「御手紙は拝見させていただきました。酒井様は報道関係の御方なのでしょうか」
旅館の経営は、僅かな悪評が命取りになる商売だ。夏稀が宿に持参していた荷物は、至るところにカメラメーカーのロゴが目立ち、素人でも撮影道具というのは一目瞭然。だが、それ故若女将は警戒しながらも、夏稀の呼び出しに応じたのだろう。
「いえいえ、確かに私は写真を生業としていますが、週刊誌のようなゴシップ記事は扱いません。雫石の墜落現場の撮影の帰りに瞳さんの宿に立ち寄っただけです。ただ……」
夏稀は今朝からに巻いていたストールを外し顎を上げた。その首筋には人の手の形に痣と複数の掻き傷が、生々しくはっきりと刻まれている。その生々しさに若女将の瞳は驚愕し、大きな目をさらに開口すると、細い指先で口元の言葉を殺した。
「私だけならば良いのです。それならば打つ手はありますので」
雫石に立ち寄ったばかりだ。何があってもおかしくはない。夏稀はそう思っていた。何せ一部では “ 日本最悪の霊場 ” なんて囁きもある場所だ。もし自分に原因があるのならば、迷惑となる前に宿を出て鏡子の力を借りるつもりだった。だが、夏稀のその意を感じたのか、若女将は嘆願するような表情で身を捩り近づけた。
「打つ手と申しますと……」
「あはは。馴れているものでしてね、こういう事柄は」
「解決……出来るという事なのですか?」
「私じゃないですけどね、解決するのは。化け者じみた友人がいるんで……はっ」
いきなり顔色を変えた夏稀は、辺りをキョロキョロと見渡す。悪口を言った時に限って鏡子に聞かれている。それが夏稀の定番だったのだ。
「酒井様っ、是非にともの嘆願がございますっ」
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