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立烏の宿
日も落ちかけた頃。若女将の瞳と共に『立烏の宿』の石畳みを歩き、再び暖簾をくぐろうとした夏稀は、ふと母屋扉格子の脇の看板に脚を止める。最初にくぐった八脚門の冠木にも掲げられていたのだが、夏稀はそれには気付いていなかったのだ。
「瞳さん、ここって “ 立鳥の宿 ” じゃないんですか?」
夏稀の問いに、瞳はクスリと指先で唇を隠す……いちいち仕草に品性が漂う人だ。
「ええ、皆様よく間違われるのですよ。その漢字は烏です。でも読み方は “ たちうのやど ” なので、私共もすでに気にかけてはおりませんが」
「へぇ~、なにか由来があるのでしょうね、創業も歴史がありそうですし」
「わたくしも詳しくは存じませんが、平安の延暦の頃に暖簾を揚げたと聞いておりますので。千年程になるのでしょうかね」
「せ、千年っ、」
「これまでに何度も修繕を繰り返しておりますので、千年の腐蝕、雨風に創業から持ちこたえているのは八脚門の鬼板ぐらいでしょうけど」
それを聞いた夏稀は、足元をそっと忍ばすように優しく格子の玄関をくぐる……歴史の重さに恐縮したのだろう。
部屋に荷物を置くと早々に浴衣を手にし、夏稀は浴室に向かう。昨夜より多少時間が早いのか、家族風呂の格子からの夜月はまだうっすらとしか見えていないようだ。しかし貸し切りの湯船だ。心身は十分に癒される。夏稀は指先で首筋の傷を湯で擦りながら思案を巡らていた。
『千年かぁ。鏡子ネェ……これはなかなか手強いかもよぉ』
フードコートで掛かってきた電話だと、鏡子は夕方頃にはこの宿に脚が届くらしい。電話を夏稀と代わった瞳が『事を収めて欲しい』と、鏡子にことさら嘆願したのだ。鏡子ならばそれこそ片手間だろうと括っていたが、暮れる闇の中で肩を湯舟に浸しながら “ 千年の暖簾 ” と思うたびに不安な気持ちが膨らんでいくようだった。
闇の中……そう、いらぬ照明を消すのは夏稀の癖だった。ましてや格子の月灯りを堪能したいがあって浴室、脱衣室の照明は、すっかり落としていたのだ。と、その暗い脱衣室の扉がいきなり開き、聴き慣れた声が響く、それは一糸纏わない姿で艷しい微笑みを浮かべた鏡子だった。
「……報酬前払いぃい~っ」
「ちょっ……き、鏡子ネェ……ふぁあんっ、ま、待って……んあんっ」
鏡子はここぞとばかりに夏稀の身体を堪能する。鏡子にとっては親愛の挨拶みたいなものなのだろう。格子の夜月は湯船に火照った二人の朱い艶肌を飛沫と共に照らし続けてる。しばらくの時間、浴室からは耽美な艷声が響いていた。情事の後。夏稀は肩で息使いをしながら湯船の縁に上体を投げ夜風に涼んでいる。 不意な情事にことさら湯が廻ったのだろう。
「ふぅ、いいお湯だなぁ~いやぁ満足満足っ」
「はぁはぁ……んぁあっ……もうっ、満足満足じゃねーよ、鏡子ネェっ」
「まぁまぁまぁ、久し振りなんだしさ……んっ」
湯船に浸かり、湯で顔の汗を拭った鏡子の表情が止まった。早々何かの糸口をつかんだかのように。浴衣を羽織り、昨夜と同じ部屋 “ 桔梗 ” の間の襖に手をかける。しかし部屋に入る以前に何かの気配を感じたのか、鏡子は木片に彫られたその室名を随分と眺めていたようだ。
部屋に戻り、多少の揺らぎの後。夏稀がフロントに連絡をし、食事の用意をと伝える。鏡子が利便を思案して今夜は部屋内での夕食としたのだ。若女将の都合の良い時に合わせ話せるように。
程無くして部屋に膳が運ばれる。昨夜と変わらず過ぎる程に豪華な膳だ。まして二人で堪能する味はまた格別に思えるものだった。と、丁寧な挨拶と共に部屋の襖が引かれ若女将の瞳が顔を覗かせる。瞳は畳縁に丁寧に指をつくと、にこりと微笑みゆっくりと襖を閉じた。
「はふはふっ、た、たべながらでふみまへん……ふぐっ、お、おいひいですねこれすごく」
「お気に召したようでなによりです。お食事のままで構いません、わたくしも今宵の奉仕事は終わりましたので」
「ったく、鏡子ネェはぁ……」
「お二人は姉妹でいらっしゃいますのですか?」
並ぶ二人の顔に瞳が首を傾げた。まぁ初対面の相手からは、毎回のようにされる質問だ。しかし鏡子は御猪口で喉を流すと、その和やかな雰囲気を一瞬で凍てつかせた。
「女将さん、ここの温泉枯れてますよね?」
瞬時に瞳の微笑みが強ばり、空気が凍てつく……だが、鏡子のそれはクレームとかではない。鏡子いわく霊現象って言うのは起こる理由が必ずある。包み隠さず打ち明けてもらわなくては解決のしようがないのだ。その旨を説得すると、しばしの間を置いて瞳の言葉がゆっくりと走りだした。
「……二年程前からです。それまでの湯源がぴたりと」
「霊現象が現れたのはいつからですか?」
「御客様からのクレームで知り得たので、確実ではありませんが一年半程になるかと。お祓い等もしていただいたのですが、一向に……」
「女将さん。ここはかなりの老舗と伺いました。先代よりの書き物や資料は残ってますか?」
「え、えぇ。それならば書物庫に。幸い、史事にも巻き込まれずに全て残っておりますが?」
鏡子がパンッと平手を強く響かせ、にやりと口角を上げた。
「おしっ掴まえてみせますよっ、報酬は……んっ痛っつうっ」
夏稀がその先は言うなとばかりの形相で鏡子をツネリ上げる。いつの間にか一人で飲み干した南部美人の五合瓶を小脇にして。
やがて若女将は鏡子と夏稀に至極丁寧な折り目の言葉を残し襖を閉じる。と、鏡子は首を傾げ、おもむろに自分の髪の毛を数本に束ねムシリ始めたのだ。
「き、鏡子ネェッな、何をして」
鏡子は夏稀を余所目に抜いた髪を数本づつに分けると、若女将からいつの間にか借りていたセロハンテープで、あちらこちらの壁にそれをぶらりと貼り付け出した。
「んん~? まぁ “ 結界 ” だな、いわゆる」
「結界って……普通、御札とかでやるもんじゃないのか? そうゆうのって」
「ははっ。夏稀ぃ~何年私と付き合っているんだぁ? 御札なんてのはな、貼るヤツの念が篭っていればいいんだよ。阿吽で少し迷ったけど……まぁ “ 吽 ” でいいだろ、今回は」
「阿吽って?」
「んっしょと。ん? ほら、神社の狛犬とか本堂を背に左側、 “ 阿 ” は口が開いているだろう? まんま名前の通り、阿が始まりで吽が終わりさ。諸説いろいろとあるけどな、阿は感性と救い、守りの右脳。吽は英知と攻撃の左脳だ。だから今回は攻撃に出るからな、私の右側の髪の毛という訳さ」
「攻撃ぃ? 普通は守りを貼らないとダメなんじゃないのか?」
「んや、結界の中に入ってもらうのは夏稀だけだ。私はその外側で寝る。攻撃されて私の方に向かってくるようにな」
思わず夏稀は鏡子のその笑顔に背筋を凍らせた。まるで楽しんでいるように見えるのだ。夏稀は時折垣間見る鏡子の深すぎるその未曾有に魅入られていた。
『あっでも、って事は今夜はゆっくり寝れるのかな? 私』
「あぁ、もちろん寝るのは “ ヤル事 ” たっぷりとやってからなっ、」
「もぅっ、鏡子ネェッ」
――丑と寅の狭間、午前三時を過ぎた頃。情事の疲れに深く寝息を立てる夏稀の周囲に貼られた結界。その外側に座としていた鏡子の髪の毛がゆらゆらと跳ね出すと、襖に寄りかかり微睡みかけていた鏡子の眉がぴくりと反応した。
『ん……おいでなすったな』
姿勢をひらりと正すと、鏡子は右の拳を左の手のひらに胸元で強く打ち付け、畳に左のひらを押し当てる。アナログのチューナーを合わせ電波を拾うように隠し世の全てを拾う。何者にも魅入られる事のない鏡子故に出来うる事だ。左は阿吽の “ 阿 ” 感性の右脳だ。鏡子はブラックホールの如く、その左のひらから隠し世を吸い上げていく……が、飛び込んで来たそのあまりにもなビジョンに鏡子は愕然とした。
『ッ、来たっ奥州、義経? 何ぃ? す、静御前だとぉ……こ、この地はいったい』
――「ふぁあ~。あ、あれ、鏡子ネェ」
格子障子からの陽射しに微睡みから醒めた夏稀。しかし視界に鏡子の姿は見えなくなっていた。鏡子の足取りを探し、フロント回りまで脚を運ぶと、土間の長式台を丁寧に磨く若女将の姿が見えた。
「あら、酒井様。おはやくございますね」
さすがに老舗の若女将だ。まだ六時前だというのに、その凛とした慎ましさに浴衣を乱した夏稀は少し頬を朱らめる。
「あ、あのぉ、鏡子ネェ知りませんか? 見当たらなくて」
「あぁ。鏡子様でしたら書物庫に。早朝に鍵をお貸しいたしましたので、そちらにいらっしゃると思いますよ」
母屋から右手の奥に十間程の所に漆喰壁の蔵が見える。門前に南京錠が外され置いてあり、僅かに閉まりきっていないその扉は、中に鏡子が居るという証なのだろう。夏稀はその僅かな隙間に指先を入れ、扉をひいた。
「おぉ~い、鏡子ネェ、」
「ぐぉっつっ、げほっげほっ……はぁ、はっくしょんっつっ……と、扉閉めろぉお、夏稀ぃいっ」
「う、うんっ」
火矢等を防ぐ為なのだろう。蔵はいくらかの至極小さい風通しの穴があるだけで、扉を塞ぐとまるで漆黒の闇となる。その中で懐中電灯を片手に書物を漁る埃にまみれた鏡子が居た。
「なっ、なにも明るくして探せばいいのにぃ鏡子ネェ」
「ば、ばかっ、扉閉めないと風で埃が舞って仕方ないん……っつくしょんっ」
「な、何か手伝う事は? 鏡子ネェ」
「いや、目ぼしい事は全部。読めない古文もな、面倒くさいからまるっと暗記ひた……くしゅんっ、から大丈夫だよ。もうここ出て風呂入ろ、風呂ぉ」
読めない古文まで暗記した等と俄に信じがたい話しだが、夏稀はまるで疑っていなかった。過去に何度も間近で見てきたのだ。浮世離れとも言えるような計り知れない “ 何か ” を持つ鏡子を。
二人は書物庫の鍵を若女将に返すと、早々に浴室に向かう。埃を流す為というのもあるが、やはり朝風呂は外せない醍醐味だ。身体を流し湯船に浸かったが、しかしそれを堪能する間も無く二人は論を交わし始めた。
「……で、紐解けそうなのか鏡子ネェ」
「あぁ、たぶんなぁ。水脈が枯れた事で、恐らく地に濁りが出たんだよ。書物によると、どうやらに元々この地は “ 曰く ” が多すぎるらしいからな。泉源、温泉が枯れた原因についてはな、ここから車で一時間程の所にある “ 姫神山 ” からの水脈らしいから、朝食の後に走らせてみれば分かるだろう……が」
眉間を僅かに強ばらせた鏡子がこの後に続けた言葉は、ましてや若女将の瞳には打ち明けられはしない事だった。ここの宿名 “ 立烏の宿 ” が鏡子の言葉通りなのならば、 “ 鬼の棲む宿 ” となるからだ。
「ここは奥州合戦の地だ。ここらを収めて居た元豪族の南部藩、鎌倉時代に将軍にのしあがった源頼朝。共に結託し、この地の豪将安倍貞任を釘打ちにし、源義経を自害に見せかけ殺害した。その怨みを請け負ったのが姫神山に奉られている “ 静御前 ” と “ 立烏帽子神女 ” 鬼と呼ばれた双子の姉妹だ。恐らくに守り…… “ 鎮静の水脈 ” だったのだろう、故に枯れたとたんに鬼に阻害され最後まで天下を取れなかった南部藩の足掻き怨みが濁り滞って沸いたのだろうな。しかし千年近くもたいそうなこったよ、まったく」
「じゃあ、温泉が復活すれば解決って事?」
「いやいや、温泉じゃなくても水道水でも濁りを流せば大丈夫さ。昨夜話したのだが、さすがに千年も昔の事だからか? 忘れてやがるよアイツら、何に怒ってたのかも。バカなんだよ」
広しといえど、幽霊をバカ扱いするのはあんた位だよきっと。と、夏稀は鏡子の強さに安堵し微笑んだ。しかしそれは鏡子の目にしかりと止まっていたようだ。
「ちょっ……き、鏡子ネェ……あ、あぁんっ……お、おぉ~い……キャアァッ」
格子からはすっかりに朝日が射し込み、湯船に朱く上気した二人の艶肌と、跳ね滴る飛沫をきらきらと照らしていた。
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