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ナッツ
翌日の通夜の後、虚ろに繁華街を歩いていた。原因不明の窒息、それが死因らしい。八月の生温かいよどんだ空気が思考を止める。しかし脚は自然とあのビルに向いていた。一昨日の夜、確かに亜樹さんと一緒に篝でお酒を飲んでいたはずだ。あれは夢なのだろうか。
――雑居ビルの六階でエレベーターの扉が開く。昨夜訪れた筈の店、“ 篝 ” があるフロアーだ。静かに閉じていくエレベーターの扉を背中に通路を一番奥まで進むと一人の女性が壁にもたれて携帯電話を眺めていた。
Tシャツにアーミーパンツ、深く被った帽子に黒い編み上げのブーツ。それがやけに様になっている。
面識はないのだからと扉に向かう僕に「鍵が閉まっているから開かないよ」と言葉を投げ、店休のようだが確認しようにも篝さんは携帯電話すら持っていないと嘆いている。仕方がないと通路を戻りエレベーターを待っていると、僕の肩に手をかけて「同じ篝の客同士、良かったら連れ合わないか」と微笑を見せた。
「なぁ、少年の家は近いのか? いや、そこらの店でオゴッてあげたいのだがな、あいにくギャラが入るのが週明けなんだ。少年の家で宅飲みする程度ならオゴッてやれるのだが、どうだ?」
誘いを断る言葉も理由もみつからない。いや、状況を呑み込めていない僕はただ頷いた。一人になれない、なりたくない。それはきっと嬉しい言葉だったと思う。
アパートまでは歩いて二十分程。立ち寄ったスーパーからのビニール袋をぶら下げ部屋の鍵を開ける。ブーツを脱ぐ手間なのだろう、女性は玄関で腰を落としてから随分と時間がかかっていた。ワンルームの部屋に置いたテーブルに買い出してきた物を並べ終えた頃、ようやく気配が間近に届く。向かい合わせに腰を落とし、深く被っていた帽子を脱ぐと部屋にそぐわない甘い香りが放たれた。湿気のせいで余計に拡散されたそれは、違う感性にまで届いてしまうようだ。
帽子に隠れて分かりにくかったけど、大きい瞳に小さな顔、それに似合うショートカット。二十代後半頃なのかな。うん、正直かなりの美人さん。
一昨夜、一緒に過ごしたはずの亜樹さんの事だけでも落ち着かなかったのに、今さら部屋に女性を招いた事実が込み上げた僕は何を話したらいいのかすっかり分からなくなっていた。は、早くエアコン効いてくれないかな……もうっ、
それを余所目に早々とビールのタブを倒した女性は「ところでさ、少年っ」と僕に名前を聞いて来た。
そういえばまだ言っていなかったっけ、いつも名前を教えると女の子の名前のようだとからかわれる。自分では今時の普通の名前だと思うのだけどなぁ。
「天久 優? 一度篝で聞いた時は、もっしーじゃなかったか?」
一度って……あぁ、篝でカウンターの左隣に居た女性かぁ、この人は。
“ もっしー ” は僕のアダ名なのだけど、これが恥ずかしい。なにせ “ もやしっこ ” って意味だし……っと女性は気持ち良い程の笑い声をあげる。いやいや、そこまで笑わなくても……でも、何か淀んでいた気分が掻き消されていくようだ。
「私はナッツだ、まぁ “ アダ名 ” だけどな」
――テレビではその日のスポーツニュースが流れている。買い出した物資が消化された頃合い、大学生活の話やナッツさんの仕事の話、恋愛話では随分とからかわれた。
「貴重だぞ童貞はっ、でもいよいよ切なくなったら私がもらってやるよっ」
酔っているからって、からかい過ぎだよもうぅ……頬に熱を感じながら残り少ないビールを喉に落とした。
ナッツさんの仕事は特殊なジャンルのカメラマンで湾岸戦争の写真も撮ったらしい。今度是非にと見せてもらう約束をしたけど、話しの途中で少し虚ろげに『あんなビジョンを記録に残すってのは、それだけで業なのかも知れないけどな……』と、ナッツさんは目を伏せた。言葉の意味を理解する事は難しかったけど、きっと僕には想像もつかないような世界を見ているのだろう。
「ところで今日篝の前で会った時すごい顔していたが、何かあったのか?」
「あ、はい。知り合いの通夜の帰りだったんです。篝で僕の隣に居た女性の」
「それで黒いスーツだったのか。いや、若いのに随分と暗いセンスだと思ったんだ。けど天久も篝の常連だったんだな、よく一緒に飲んでいたのか? その人と」
「廊下で会った時はネクタイだけは外していましたしね。いえ、二日前の夜が初めてです。一緒に飲んだのも篝に行ったのも……でも」
一昨夜の出来事、僕の話した内容はきっと支離滅裂だっただろう。
「じゃあ昨日私は天久と会話をしたのか?」
「は、はい……僕をハーフって」
「ん~、普通で考えれば夢なんだけどな、なにせ場所が篝だ……あそこはなオカシイんだ、何かが……天久。あの店で、篝で本名を言うなっ」
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