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言霊
週明けの水曜日。その夜は例の店 “篝 ” でナッツさんとグラスを交わす約束をしていた。
先週『よかったら連れ合わないか?』の声からナッツさんと一緒に過ごした朝、酔いのままに微睡んだのだろう。片隅に寄せられた薄手の毛布の中で目覚めるとすっかり片付けられたテーブルの上に缶コーヒーと一枚のメモを残し、ナッツさんは姿を消していた。メモにあった連絡先から携帯電話に連絡を取り、今夜の約束になったという訳だ。
『あの店は何かがオカシイんだっ』
あれからナッツさんの言葉が頭を離れずにいた、何かがおかしいっていったい。
――雑居ビルの六階、一番奥にある黒地の看板の店。黒い扉に朱く装飾されたドアハンドル。約束の夜八時。手を添えそれを引いた。店内に脚を踏み入れた瞬間、焦点がぼやけ目眩のような感覚を覚える。
「いらっしゃいませもっしーさん。二度目ですね。どうぞこちらの席に」
カウンターの隅に男性が一人。前回も居た人だ、その隣に座っている女性が一人。店内の雰囲気と空席を確認して入り口側の端をひとつ空けた席に座りナッツさんを待った。
紫煙を湿らせた篝さんはカウンターに置かれたおしぼりの隣に竹織で作られたコースターを置きメニューを差し出す。前回まで見る事がなかった物だ……レッドアイは書いてないんだぁどうしよう。
「洋酒は大丈夫ですか? 薄目のウイスキー等で。お口に合わなかったらまた考えますので」
戸惑いならがも頷くと、篝さんは背後に並ぶグラスをひとつ手に取り氷を砕きだした。お酒の種類でグラスが変わるようで、背の低いそれはロックグラスというヤツらしい。考えてみればBARで一人で飲むなんて初めてだ。なんか緊張するぅ、早くナッツさん来ないかなぁ。
「あ伊丹さん、今日もですか?」
スーツ姿の男性が扉を開けた。と直ぐ様カウンターの隅でグラスを傾けていた男性に近付き、えらく親しげだ。
「あぁ毎日毎日疲れるわ本当に。おっ、今日はピコちゃんも一緒かっ」
ピコさんという女性が読んでいた本を閉じ伊丹さんに軽く会釈を返す。黒く長い髪、白いワンピース。上品を絵に描いたような女性だ。隅の男性の恋人なのかな? 店内のそんなやり取りに気を取られていると、ほどなくしてナッツさんに肩を叩かれた。
「後ろの席に移ろうかぁ。篝さぁん、私はいつものお願い」
カウンターを立ち案内されたソファー型の席に移動し腰を落とす。思いの外クッションが深く、危険なほどに心地好さを覚えさせた。
「っしょと、お待たせ。いや、今日はこっちの席の方がいいからな」
「ナッツっう、何だぁあ若い男に悪さかぁ?」
「うっせっ、伊丹と一緒にすんなっ」
みんな顔見知りなんだな。あのスーツ姿の伊丹さんって男性は前回後ろの席に居た人だろうか、
「あの伊丹ってヤツはここの店じゃ随分と古株の常連だ。世話好きなのかただの女好きなのか分からない人だけどな、随分と私もグラス越しに愚痴を聞いてもらったりしているよ」
グラスを傾けながら横目で伊丹さんを見た。背も高く、色黒な顔。正直最初の印象は本物の怖い人だ。あ、余り世話好きな風には見えないんだけどなぁ。
「端に座っている亀山ってのはなんとなく伊丹と同席する事が多くてな、二人が同席になるとまぁ大体いつもあんなノリだよ。亀山の生業は不明だが伊丹は警察の人間って話だからな、あまり飲みすぎてヤラかしたら即逮捕だ。けどまぁいつも誰よりも酔っぱらっているけどな、伊丹がっ」
警察官という言葉に思わず手元のグラスを滑らせそうになる。それにしては随分とくだけて……いや、酔っているだけなのかもしれないけど。
「ピコさんって名前で通っている亀山の隣の清楚系美人はヤツの彼女だよ。ほどんど喋らないでいつもあんな感じだ。でもな、時折すっげー怖い顔するんだ、あんな可愛い顔なのに……亀山絶っ対尻に敷かれているな、ありゃ」
な、何か違うぞぉ、テレビとかで見るBARはもっとこうなんかおしゃんてぃな……あ、いや、そうじゃなかった、
「で、ナッツさん。な、なんですか? このお店がオカシイって」
「なぁ、天久。お前は大学で勉強をして必要なお金を稼ぎにアルバイトをして将来の為にがんばっている。だろ? みんなきっとそうなんだ。日頃の疲れを癒す為にお酒を飲んだり悩みを打ち明けたり、他愛もない会話を楽しんだりしにここに来る。娯楽、ストレス発散の為のほんの少しの非日常。だよな? 遊びっていうのは」
オカルト話か心霊話的な事、そのつもりで耳を預けていたけど、ナッツさんの話す言葉は至極当たり前の話で、よけいに酔いがまわったような気分になる。な、何か頭がぐちゃぐちゃになってきたぞ、
「私もそう思うさ。でもな、ここは違う。異質なんだよ。例えばだ、天久は今大学生活とこの店。なくなって困るのはどっちだ?」
「そ、そりゃ大学生活ですよっ」
「だろ、普通はそうだ、そうでなきゃ社会生活は出来ない。でも私は逆転しかけているんだよ。この店が私の現実になってきている。まだ染まってはいないけどな、この店以外の事には現実味が薄れてきているんだ。仕事も、生活も。私だってもう三十歳を越えている。生活に支障をきたすようなバカな考えはしないつもりだ……しかしな、最近はこの店以外の事がバカくさい非日常に感じるんだ」
だめだ、ナッツさんの言葉が理解しきれない……社会経験が浅いからなのかと首を傾げても、ナッツさんはお構い無しだ。
「私は精神病でも論者でもない。だけどこの店は何かがネジレている、この歪みにどうしても抗えないんだ……」
「で、でも……それって」
「いや、言いたい事は分かる。調べたさ、酒に何か入れられたかとか、幻覚効果の香でも焚いているのかとか。私自身の精神が弱いせいというのも勿論考えた。で、ひとつの私の結論。対抗策が、名前を教えるな。だ」
「名前を、ですか?」
「名は体を表すってのは聞いた事があるだろ、芸名、源氏名ってのも知っているよな。じゃあ忌み名、幼名っていうのは知っているか?」
「いいえ、聞いた事ないですっ」
「名は体を表す。そのものの実体を表すって意味だ。グラスはグラスでしかなく、煙草は煙草でしかない。現代は馴染みが薄れているがな、名前ってのは力を持った言霊だ。天久の親は天久を叱る時、お前の名前を呼んで叱っただろ、それはお前の名前だから意味があるんだ。伝わる、影響させる事が出来る。だから私は影響されないようにアダ名を名乗っている……のはずなのだがな、もうナッツが私の大部分になってしまった」
「そ、そんな事って……」
「無いと思うだろ。気持ちの持ちようだと、だけど想像してみろ。全ての人がお前の名前を忘れて、お前を義経と呼び出したら……一年後、お前はお前で居られると思うか? そしてお前が昔の名前を忘れた時、あるヤツに昔の名前を呼ばれるんだ。その時お前は死ぬ。精神的にも、下手すれば肉体的にも死ぬんだよ。それが名前ってのが持つ力、言霊なんだ」
「だから僕もここで名前を名乗るな。って、事ですか?」
「本名を知られるって事はな、首を掴まれるようなものなんだ。今は戒名ってのを死んだ後で坊主がテキトーにつけるけど、昔は産まれた時に付けたんだ、死んだ後の名前を。それが忌み名、真名ってヤツさ。だからそれを呼ばれる事は死を意味する。幸いお前の名前はまだここでは知られていない、もっしーがアダ名だから森田君でいいんじゃないか、うん」
「そっ、むちゃくちゃテキトーじゃないですかぁ、それぇ」
ナッツさんの横顔がひどく綺麗で何か随分と昔から知っていたように見えた。なんだろぅ……四杯もウイスキーを飲んでいた僕はすっかり酔ったみたいだ。もたれ掛かりながら話を聞いている自分の呂律が面白くなっているのがわかる。
「そだ、優子って居るだろ、デカパイアイドルの。本名な、 鷹村広恵だぜ?」
「ぷっにっあわないですねぇ、それじゃぁ」
「幼名ってのは昔の武将とかが立場が変わる時に捨てる名前なんだが、私が聞いて一番身震いしたのは源頼朝だよ」
「な、なんだったんれすかぁ?」
「てか懐きすぎだぁおまっ、さすが呪いの王様だと思ったよ。鬼武者だとさ」
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