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ウロコ
――ひと夏の恋――
とでも謳えばそうなのだろう、なにせ若い男性を連れ込んで同棲しようとしているのだから。などと物事をポジティブに捉える性分ではあるが、この混乱はさすがに隠せるものじゃない。
軋むような痛みは収まったようだが、天久の風貌の変化は日々増しいくばかりだ。
安西先生に四方調べてもらってはいるが、もはや手遅れと感じる程天久は男性の容姿を失っていた。そんな病気なんて存在するのか?
しかし乗り掛かった船。落ち着く迄しばらくここに住めと言ってしまった以上は只見ている訳もいかないしな、といっても解決策などないのだが……
きっかけとなった場所はきっと篝なのだろう。何でも構わない、糸口を見つけないと。
――雑居ビルの六階、一番奥の黒地の看板。
黒い扉に朱く装飾されたドアハンドルを引くと篝さんの声がカウンターから響いた。平日の静けさも相まって声までも歪むような空間は子宮に包まれたように先までの気概を呆やけさせる。
カウンターテーブルに誘われた席を引くと店内には揃うよう見知った顔が並んでいた。カウンターの端隅でアルコールを口にせず読書に更けるピコさん、その隣で何やら手の平サイズのゲーム機に向け文句を言っている亀山さん。
後ろの席で見馴れない女性客を上機嫌顔で脇にした伊丹さんに至っては酔いの頃がもはやイエローカードだ。
「だからさぁー凍死だっつんだぞぉ、鑑識のタコが、こんな真夏にどーやったら凍えられるんだっつーのなっ、がはっ」
「……そ、そうですねアハハ」
お姉さん困惑してんじゃねーかよっ、て……いいのか守秘義務とかは、ったく。
私はかれこれ三年程足敷けく通っているが、とにかく常連客と呼ばれる面々は斜め上な奴ばかりだ。カウンターを挟む篝さんにいたっては性分というか私生活じみたものが全く見えて来ない。
どこに住みどのような生活をしているのか……性癖なんてあるのか、この人に。かといってバーテンらしさも皆無。いや、もはや落第点だ。
お酒に任せて饒舌になる訳でも無く、流行りの歌や時事ネタも知らないようだし、客が私一人の時などは無言のまま過ごす事もある。時折襟が整った客と難しい会話をしているようで近代歴史や数学なんかにはめっぽう詳しいらしいが、そんなのを酒のツマミにしては只々悪酔いの種だ。
学者にでもなったらいい……ったく、グラスばかり拭いていないでたまにはおべっかいのひとつでも言えってんだ。
「かがりぃ~あんたさぁ結局男と女どっちが好きなわけぇ」
「どちらが嫌いって事は無いですよ私は」
そーじゃなくてよっ、私の事が好きとか気の利いた事を言えねーのかっコイツはっ、う、ううん……随分と回ってきたのな私、飲み屋のお姉さん口説くオッサンみたいじゃねーかよっこれじゃあ……なーんか切なくなっ……いやっあったまにきたっ、
「私だってなかなかのモンなんだぞっ」
「えぇ、すごく可愛いブラジャーですね。お似合いです」
少しは自慢なんだよ、ってんで篝さんに向かってシャツを捲り上げたのだが……こっのとーへんぼくのクソおかまっ、
と、右の席からバチンと音がした。えっ、と向けた先では亀山さんが眼鏡をコントのように傾かせて頬を抑えている。どうやら私の下着姿を凝視したのがピコさんの逆鱗に触れたようだ。常連客の間では事ピコさんに至っては絶対に怒らせたら怖いという概念がある。亀山さんの襟首を引き店を出て行く姿はもう “ やぶさかでない ” といった感じだ。な、なんかごめんよっ亀山さんっ。
お盆の連休を目前としている平日の夜、日付が変わってからもう随分な時間がたっただろう。来賓の消えた宴席に私一人がグラスの音を響かせている。指先で遊ぶ氷に朱を乱したグラスは夢物語の始まりのようだ。
何故詰める程に通っている? 私にとっての癒しだからか、それとも日常だからか。真意を覗いてみたいとか、いや……堕としたいんだ私は篝さんを。
――出来る限り美しく見せなさい。恋は盲目なんて誰が言ったのかしら、待っていてはだめよ。完璧な好機など永遠に来ないわ――
誰だっけかな、そんな事いってた偉人は……まぁいいや、私だって多少なりとも経験はある。見てれよこのクソおかまぁ~っ、
「結婚どころか私まともに男性と付き合った事もないんだよね」
「信じられないですよ、私が男性ならナッツさんみたいな素敵な女性をほっておきませんけど」
って、お前オトコだろーがっ……いかん、ここは淑女らしく愁いた感じじゃないと、
BARという場所は本来お酒を提供するだけで接客をしてはいけないらしい。まして客に肩を寄せるのは御法度なのだが、愁う伺いにほだされてくれたのだろう。手を休めた篝さんが私の左隣の椅子を引いた。
利き手がとか心理的にとか、心臓がとか所説あるらしいけど、一般的には委ねる側、女性が左だ。第一関門クリアと喜んだ矢先にヤられた感じだ。これはどうにも落ち着かないぞ、
「ね、ね、ほら私さ。ミニスカートでも履いたら少しは女らしいだろうけど」
なんかもう死にたくなってきた……まるで言動があやふやだ。
カウンターの中、いわゆる普段篝さんの立つ場所は客席よりも床が低くなっている。威圧的にならないように等の理由からなのだろうが、そのせいかいざ隣にとなると潰されそうな存在感だ。
「脚の事知っていましたよ。素敵だと思います、私はありのままのナッツさんが」
無意識に先走ったのだろう、いつの間にか私は義足を露にしていた。
外国に出向く父の仕事に同行した時に事故で私は膝下の右脚を失った。女性とすれば後悔は拭えないさそりゃ……篝さんの言葉に私の堰は崩れ落ちた。
首筋に腕を絡ませて言葉無く確かめる……控えめな幅に厚みのある椿は私の侵入をゆっくりと受け入れた。小さく落とした店内の照明は耽美さを増していくようだった。
艶々と深海に沈むような意識の中、篝さんの胸元を緩めると夢見色の蕾が覗いた。確かめる指先から伝わる繊細に、たまらず篝さんのブラウスを肩から落とした。
しかしその情欲は撫でようと伸ばした指先に突如と奪われた。
――ハァハァハァ、っつ……くっ、
どれ程の時間を走ったのだろう、私は篝さんを突き放し店を飛び出したのだ。夢物語からの目覚めは軋む義足の痛みでも現実を受け入れきれていない。
篝さんの身体……肩から左腕全部が黒い……ウロコのような……いや、知ってる。戦場で嫌になるほど何度も見たあれは
あ、あれは……死人の身体だっ、
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