小さな兆し

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小さな兆し

 佳奈子が吐息の矛先を離れ住む父にまかした翌日、週明けた月曜日の朝。職員室のソファーで膝を高く揃えた雪乃はしかりと伝えとおり佳奈子を待っていた。  ほのか薄水(うすみず)色のセーターに茅色(かやいろ)のハーフパンツ。ブレザーではと先週佳奈子がぱらぱらと(めく)った学友となる装い写真に寄せ合わせたようだ。いやみ気ではないのだが、足りなすぎる不調さを不自然気味に思わせるのは洋装の質なのか、雪乃ゆえの事なのだろうかと教室へと向かう枕木色の廊下を案内付き添う佳奈子はややあぐねている。 ――さりとてこの物語であおぎ称えなければならない隠れた花形はイデオロギーだろう。  『無知は罪、知は空虚、英知持つもの英雄なり』は有名な哲学者ソクラテスの言葉だが、果たしてどうなのだろうか、人をあやめ殺せると知らなければ殺人はない。盗めると知らなければ誰も行わないだろうし、嘘という概念がないのならとも考えられる。  そう、この学校……いや集落には “ イジめ ” という概念がない。知らないのだ。それゆえ佳奈子の案じはまるで取り越し苦労なのだが、さりとてさのよう俗世間はなれた集落のよがりは、うらはらに雪乃の置かれていた環境など誰一人そら(ごと)としてすら(えが)けなかったのもまた事実だ。 ――腰肉をほどよくつけた二人の男性教員が朝つゆ残る中に倉庫から運んだ大きさ二番目の机と椅子。それでもへたれていなく傷の少ないのをいくらかは吟味したようだ。  三年生の教室、窓際の三番目。意外とだが、小柄だと黒板が見えやすい位置らしい。年度が変われば進級で教室の移動になるが、よほどでなければ卒業まで同じ位置席というのがここの風習だ。  雪乃はそれでもたった一度しかそれに習う事ができなかったのだが。  雪乃が座る前の席には親方とアダ名づけられている浅野隆男(あさのたかお)。もれなく大柄で正義感の強い昔ながらの “ ガキ大将 ” というやつだ。横の席は姉御肌の高田美奈(たかだみな)。アネゴと呼ばれている運動上手な女の子。絵の好きな男の子が後ろの席に座る長谷川健也(はせがわけんや)、アダ名は博士。質の悪い画用紙を水彩でヨレヨレにしながらも宇宙を走る列車の美女を書くもようはなかなかの絶品だ。  流行りなのかという感じだが、アダ名づけが多いのは小さい集落だと同性は幾多、名まで同じも珍しくないからなのだろう。  そんな中 “ 雪乃 ” という名前は当時ではいっそう珍しく、名づけの必要はなかったようだ。  しかし子どもならではのレパートリーの少なさは仕方ない。親方はどうやら校内に十人程いるようで、飛び交う会話だけだとなにやら工務店であるかのような呼び合いになっている。  やにわ迎える準備の整うなか、佳奈子が三年生の教室の引き戸に手を据えるのを合図にアネゴが起立と号令をかける。続く挨拶に埋もれながら佳奈子の二歩後ろを雪乃が続いた。  さて、ここよりはよくある転校生のご紹介というくだりだ。黒板に名前を書いたのち、ではと自己紹介をうながした佳奈子はそれになにやら肩をすぼめた。  名前は女の子のようだが、自分は男。運動は不得意なので大目にとなど、びー玉の目をした三日月笑顔の少年は自虐遊ばせる大人顔負けの言葉振りで、かくもさらさらと見入る眼差しをくつろがせた。  いや、これでは佳奈子の新任式のほうがよほど無様だっただろう。  「雪乃くん可愛いーっ」とアネゴがぴょんと跳ねる。(うと)ましくとらわれるどころか、どうやら三日月の笑顔は抵抗無くかたわらを()だしたようで、ガヤガヤと渦中に身どもを晒すも、ひとつ手前ひけらかさず話を引き出す聞き方一途な雪乃の手合は上々(じょうじょう)頃よさを(かも)していた。  ブレザーを着なしていた様子とまるで別人ごとく、するり雪乃はたやすく溶け込んだのだ。  しかしその小なれは肩をすぼめる佳奈子に尚のことぬたり異色をますます曇らせた。 “ 八歳の子が行うことでない ” と。
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