第二楽章

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第二楽章

 鈴のかなで絶える始業ややあるころ。騒がしさを一斉に皆が下ろす間際にまぎれるように教室に入るのが雪乃の常だ。  学課あいまに世話好きな親方が招いた放課後の草野球には “ 家に女手が無く飯事などがかさばるので、がてらついでに日々義父がむかえに来る ” と向ける三日月の笑顔はまるで差し支えがない。かとすれば給食というしくみが育成されていない集落で、当時ずいぶんと珍しいサンドイッチを三日月笑顔の少年は事おしげなく “ 食べる? ” とみんなに差し出す。かよういけ好かないほど見事こよない振る舞いは彼の思惑、作為ぞんぶん友好的に距離を狭めない。  しかし、当時にハイカラなサンドイッチを躊躇なくなどと、その染み入りぐあいは(うつ)けなのかと思うほどだ。  存在感うんぬんというのではなく、おぼろ夢のようあやふやな雪乃の “ 実在感 ” は誰かれ最後まで見送ったのち、ひとり教室に残っていても級友一人として気兼ねとめていなかった。  柑子色(かんじいろ)が三日月をとじた人形をななめに(いろど)る頃ようやく雪乃は腰をあげ帰路につくが、義父の迎えなど用意されていない事を遠目に見やっている佳奈子にはでまかせ舞台をさがる楽手(がくしゅ)のよう似より思えていた。  さのよう事あるごと目を引く日々に取り越し苦労と拭いきらない佳奈子に家路はかった父からの電話は、しこる気持ちを尚更もやもやと気迷いうながしたようだ。 ――競争ではない、採点もしないから思うだけ好きな絵を時間内に書けと課した先日の図画工作。四十分程の猶予は手ごろ、簡素な仕上がりがほとんどだ。  凝ろうとした結果、画用紙の片隅以外サラのままというのは意外にもアネゴのものだった。おもいのほか実は繊細な少女なのかと思えたりする。博士にいたってはやはりズバ抜けていたがモデルは浴衣にハチマキをして踊っているブラウン管の五人衆というのはひょうきんさの表れだろう。  おおざっぱではあるが、モチーフの無い絵というのは性格や心理状態をはかるには随分と有効なのだ。  『これは本当に佳奈子の教え子、八歳の子供が書いたものなのか? だとしたら』  佳奈子の父は警察官だったが早めに退職したのち、京都の大学で講師を務めている。講義のかたわら今で言う “ 神経心理学 ” そのような研究にいそしんでいたようで、佳奈子が大学生の時分から絵の書き方ひとつでも様子がわかると言っていたのだ。  提出された雪乃の絵にことさら異質を感じた佳奈子は画用紙を丸め、そのまま父へと郵送していた。手間はとられるが、安易に相談するにも遠距離の長電話ではひと月の食費ほど悠にかかってしまうし、ファックスなど集落の役場にあるかどうかの怪しい時世だ。  ようやく父の目にふれ佳奈子が受話器を取ったのは郵送から一週間を過ぎていた頃だった。  横向き画用紙。左下側に柳のような形をした細い木が二本、奥の木は上に随分と細長いが葉は全く付いていない。幹根から無数に広がる焦げ茶色の落ち葉、霧のような雨天。黒く塗られた地面。人間や建物、太陽は見あたらない。  佳奈子の父いわく一九二○年代頃にエミール・ユッカなる人物が提唱した定義に基づいて考察したらしいが、雪乃が書いた絵は『他者を怨み呪っているのならまだいい、だけどこれは自分を呪っている。自殺する人間が書くような絵だ』と。  佳奈子は受話器残る父の声をよそに無言でそれを置いた。想像を凌駕しすぎた内容に思考が拒絶したのだろう。まして彼女には解決する手段も雪乃を壊す権利も持ち合わせていないのだから。  校内にも保健医は居る、他の教員方もだ。しかし相談しようにも、この時代ましてや田舎の集落には精神性障害やうつ病などという概念が存在しない。痴呆という言葉すら一般的ではなかったのだから、若くして異質、突飛な人間は総じて『変な人』とくくられるのは現然だったのだ。  しかし佳奈子がいくら気がかりと言えど、一人の生徒を特別扱いというのは当時でもやはりご法度で、かのようすれば周囲の子どもは敏感に感じとるだろう。いくら葛藤があろうと佳奈子は公人であらねばいけない。  しかれど芥川龍之介が言うようやはり “ 運命は偶然よりも必然 ” なのだろう。関わらぬ宿縁なのであったなら二人は出逢っていなかったのだから。 ――月日過ぎ二時限目の国語が始業となる時、それは始まった。  “ ごめんなさい。喉がひどく痛くて声が出ません ”  順番に生徒達が教本を読み上げる朗読の授業を始めようと引き戸を開けた佳菜子につたつたと雪乃が席を離れ、教壇にノートを拡げ見せた。  それまで素行に何の不備もなく、嘘をついてサボるような手合でない事は佳奈子含め周知の事だった。 「みんなぁ、雪乃君が喉の具合が悪くて声が出ないみたいだから元気になるまで大声で笑わせたりしたらダメですからねーっ」 「だめだよ先生ぇ、親方が目の前に居たら何もなくても雪乃笑っちゃうてば」 「なんだとぉアネゴてめー、後でまたデコピン勝負だかんなっ」  ただでさえ少なかった雪乃の口数はその日から増して消えたが、三日月の笑顔は揺るぎを知らぬままだ。故、それまで普通に話せていたのだからそのうち戻るのだろうと、風邪やもしかしたらずいぶんと早目の変声期だろうと、誰一人からかう事もさげすむ事もない、いや、気にとめていなかった。  博士は左目に義眼を入れているし、親方はケガで右の人差し指を失っている。他には腕が無い子もいた。田舎集落のおおらかさなのか、誰一人それを気がける事もなくごく自然な事のように。  薄れゆく人の記憶、それは教員といえどあまねく佳奈子も非凡ではなかった。  雪乃が教壇にノートを拡げてから一ヶ月ほどの後、音楽室では佳奈子の指揮棒にあわせて学芸会の課題になっている輪唱の練習が行われていた。グルーヴに分かれてテンポ遅れて同じ歌を歌い出すあれだ。三十人が十人つづに分かれ三輪唱、勿論そこには雪乃の姿もある。椿のような唇を動かし割り振られた声音(こわね)をこなす。  しかしそれに佳奈子は少しの(うれ)いを落とした。仮にも音楽教師、十人ほどであればどれが誰の声なのか分かる。雪乃の声が届いていなかったのだ。  放課後に一人雪乃が残っているのを知っていた彼女は、家への連絡を確認して手をひき雪乃を音楽室に連れこむ。  さて、音痴なのであれば練習がてらと、らしからぬほど意気盛んだ。佳奈子は拭いたかったのだろう、絶えず感じていた “ 異質 ” を。 「何故歌うふりをするのか、返事をしなさいっ」  佳奈子のいきどおる様はまるで恐怖の表れそのもののようにさえ写っていた。えもしれぬ戸惑いと異質へのもどかしさ、恐怖が成してしまったのだろう、無反応のまま唇だけを動かす雪乃にバカにしているのかと佳奈子は頬をパチンと打ったのだ。  この時代、体罰はさして珍しくないが、彼女自身は初めての手落ちだった。  暴力をふるってしまった事もあいまって益々佳奈子が冷静さを欠落させたつかのま、雪乃は三日月はまるでくねりと(よじ)ると、赤みを増した頬を抑えることもなく、ふさりと(うつむ)いた前髪からいつもよりガラスをぞんぶんに増したびー玉のような目を佳奈子に向け、カチャカチャとハーフパンツのベルトに手をかけた。  欠落から戻らぬ佳奈子をよそ目にするすると雪乃は衣服をはなし、遂には一糸まとわぬ姿をさらしたのだ。それはまるで()びを引き換えに(つや)ふくむマッチ売りのように。  ほのか震えに拘束を覚えるほど佳奈子はまるで理解おぼつかずだが、らしからぬ雪乃の(あだ)っぽさに()いられる佳奈子は目を逸らす事をかなわなかった。  あらわにした身肌は撫でらかな肩すじに白桃のよう華奢(きゃしゃ)さを(かも)し、ややふかふかとした先の(つぼみ)はぷくりと肌とける乳輪を尖らせている。  拡げられた骨盤に柔らかいくびれをうねらせているのは、妙技(みょうぎ)をもたらしたのかと思うほどだ。縦ながのへそに続く指先ほどのものがなおさら美妙(びみょう)にそぐわぬ(うるわ)しさを(さら)していた。腹やわずかたゆむような胸元まわりは至るところに紅の(あざ)が残り、何やら格子の綱あとが見える。それは疑いない床入りの片鱗(へんりん)だろう。  唖然とすくむ佳菜子にくねり寄り、スカート脇の腰をなぞると両手口元を覆っていた手をとりあげ(なぶ)れとばかりに自分の胸を(ゆだ)ねる。  身振りおののきピアノに仰け反る佳奈子が心ならず尻を椅子に落とした拍子、びー玉に睫毛を閉じた雪乃はくちゅりと佳奈子に唇をあわせ舌先を飲み込ませた。  その湿らせぐあいは “ 未熟者 ” では決してないものであった。  恍惚(こうこつ)とするような遠く煮詰めた蜜のほのかさに忘我(ぼうが)を足掻く佳奈子。教え子、八歳の子どもを相手にだ。  情緒は必死とまぬがれようだが、節操朽ちる間際は、もはやとりとめなく佳奈子に雪乃をふり()け、乱雑に鍵盤をはじいた音楽室を余儀なく飛びださせた。
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