第三楽章

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第三楽章

 柑子色(かんじいろ)斜陽(しゃよう)をひとり教室で睫毛にきらめかせていた三日月は瞼をゆらりと廊下に運ぶ。姿みせたのは残務をしまいた佳奈子だ。 「音楽室っ」  家路につきかけた雪乃を問答なしに邪魔だてする腹据えは仰ぐびー玉にきらきらと首飾りを揺らしていた。くみ重ねた腕のブラウスの張りぐあいは佳奈子の毅然(きぜん)、据えた覚悟なのだろう。  かくゆう気迫というのは、相対ではなくそのひとつ事に迷いなく死ねるかという事。覚悟というのは己すべてを捨ておき尽くせるかという事だ。  佳奈子は願ったのだろう、たとえ手探りだとしても(しま)いまで向きあおうと。  訳合いおぼろ、あやふやさに気迷う人形に、遅くなる旨は保護者に伝えてあるからと佳奈子は華奢な肘をやわらかに導く……(かな)で始められたばかりの序奏(じょそう)は、まるで使い手と傀儡(くぐつ)のようつたないものだった。  まくら木のあちらこちら(めく)れ朽ちかけた音楽室。ひとり(りん)とおもむくグランドピアノわきに少し格調をすえた椅子をおき、雪乃をうながしゆだねた。無論、佳奈子がほうけたのではない、雪乃の失声はいまさら承知の事だ。 「気に入った曲があったら教えてね、雪乃君」  憂慮(ゆうりょ)わずらい足掻いた佳奈子のいたる想いは “ むきあう ” ただそれだけだった。たとえ手探りふぞろう的外れであろうとも。  『戦場で生まれた子供があやとりやボール遊びを知らぬまま銃の撃ち方からを覚えたようなものだ。雪乃君は私達が当たり前に知りもっている意味の無い無償の愛情というものを知らない……理解不能なのだろう』  京六のつたえに佳奈子なり導いた()すすべなのだろう、ひとつひとつただひたすらに向きあう事だけが。  ひぐらしの音もかすみ木葉(このは)が窓べにゆだね始めた秋くちの音楽室。かわく空のただよいはグランドピアノに透きとおるような音色をはなたせ佳奈子の想いをひびかせた。とめどなく途切れぬ佳奈子の指先は、吐息にひと滴レモンの花をたらしたようやわらかい旋律で初秋(しょしゅう)にいつくしみを暖めるようだ。何も望むわけでない、ただ毎日佳奈子は(けん)を踊らせ続けそれを雪乃にささげる。 ――それは気がつけば音楽室の窓辺の木葉が雪綿(ゆきわた)にかわる頃を迎え始めていた。
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