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あれから僕は落ち着かない4日間を過ごした。あの真っ黒な瓶は鍵のついたガラス棚の奥に閉まってある。
仕事から帰宅すると出して瓶を眺めてイメージトレーニングを繰り返す。そうすれば幾分か気持ちが和らぐから。占いや風水に縋る人の気持ちが多少わかった気がした。
朝の通学通勤の大衆が過ぎ去った頃、いつもの道をゆっくり歩いて駅を向かう。いい香りがするなっと少し脇道にそれてみた。小さなオレンジ色が集まった金木犀の木がぽつんとあって近所なのに全く知らない道だ。
そう言えばアロマだとか何だかそうゆう女子寄りな物には全くの無知だし気に留めた事なんかなかった。
花だって綺麗だけど、まぁ普通って感じ。それなのにどうして道変えてまでスマホで"金木犀"を検索しているのだろう。
「金木犀の花言葉は……謙虚、気高い人、陶酔……初恋か。なんかNaoくんみたいだな」
また彼の顔が頭に浮かんではなかなか消えてくれない。何でも彼と照らし合わせる病は重症らしい。
ボケっとしていると突然震えたスマホに驚いた。画面に会社の上司の名前が映し出されて煩く掌を擽ぐる。
「もしもし。おはようございます」
「おいっ岩咲、何やってんだよ!集合時間過ぎてんだろ」
「えっ?あっ、いや11時集合ですよね?」
「バカっ!9時半だよ、一体何聞いてんだよ。早く来い!」
「あっ、す、すいません!!すぐ行きます」
あいにく今日の現場はたまたま家から近くて時間かからずに到着出来そうだが、それでもかなりの遅刻は免れない。
運良くちょうど来た電車にすぐ乗車して、ハァハァと息を切らしながら倒れ込むように空いた座席座った。あとは20分座ってれば勝手に着く。
"5日以内に使用"と言われたあのオイルのタイムリミットが明日に迫り、今日は撮影日で彼に会う。要するに決戦の日と言うわけだ。
それなのに余裕が無さすぎる、幸先悪い幕開けとなった。
「すいませんっ!遅れました」
「岩咲、早くこっち来て手伝え!」
「はいっ」
スタジオに着いた時にはほとんど撮影準備が終わっていて、主役の女優さんがピッタリと身体のラインにそったスーツ姿でDVD表紙となるパッケージ撮りの真っ最中だった。
先輩に呼ばれて撮影のアシストに入る。
確か今日の撮影コンセプトがOLと若手新入社員で、スタジオセットもデスクやコピー機など置かれている。AVでよく見るいわゆるオフィス系ってやつだ。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
パッケージ撮影が終わろとした時、聞き覚えのある挨拶が聴こえて声の方を見るとやはり彼だった。
ネイビーのスーツに白いYシャツ、それにグレーのネクタイに革靴姿。いつもは下ろしている前髪を横に分けて設定通りの完璧な若い新人社員そのものだ。
彼を見るなり心臓が早く脈打ち始めた。周りの声なんて全く入ってこない。
「ちょっと岩咲、聞いてんのか?下しっかり支えてろ。まったく遅刻するわ役にたたないわじゃどうしようもねぇな」
ぐちぐち言い出す一番嫌いな上司。
「あっ、すいません!男優さん入られたんでいってきます!」
悪いが今はあんたの説教を聞いている場合じゃないんだ。まだ何か後ろの方で喋ってたが無視して彼の方へ走った。
「Naoくん!おはよう」
「おはよう。……大丈夫?なんか怒られてたみたいだけど」
「あぁ全然!いつもの事だよ。ADなんて怒られるのが仕事みたいなもんだからさ。それより……服いいね」
「あー、実はこうゆう設定の撮影は初めてさ。スーツも着慣れないし……変じゃないかな?」
「ううん、全然!世界で一番似合ってるよ」
「ちょっと世界なん大袈裟だよ。でもありがとう」
彼が僕に笑いかけてくれてそれだけで嬉しくなる。
「それじゃちょっと監督の所に行ってくるね。また後で」
「うん。今日も長くなりそうだけど頑張ろ」
そのまま監督の方へ向かって歩く彼の後ろ姿を見つめながら覚悟を決めた。
"7日間、彼を僕のものにする"
ストーリー設定でドラマ部分と絡みの撮影が交互に何度か行われる。
他のエキストラも数名いて本格的なドラマ撮影の様な現場に、彼もセリフを間違える事なく演技進めながら順調に進み次第にムードはそっちの方向へ。
「先輩どうしたんですか。話って?」
「Naoくん、ずっと私の事見てたでしょ?」
「えっ、見てないです……」
「そう。私は前から、Naoくんの事が気になってたけど、違うの?」
そう言いながら壁に追いやり、気の強いキャリアウーマン役の女優がジャケットを脱ぎ迫っていく。両腕を彼の首に回すと身体を寄せて濃厚なキスが始まる。
少し抵抗する素振りを見せる彼の演技。どうやら初めのうちは好き放題ヤられる受けの方らしい。
僕にとって何とも言い難い時間がやってきた。もうこの時間はそれなりに経験しているが、正直彼会う度に想いが強まりこの時間が苦痛になっていた。
それでも仕事だからと割り切って何ともないふりしてきたが、どうしてか今日は目の前の情事に目を向ける事が出来ない。耳に入る声や音や息遣い、全て聞きたくない。
床に散らばっていく衣類が増えていくと顔を完全に伏せてしまった。
「……先輩すいません。お腹痛くてしばらくトイレに行ってきます」
堪らなくなり横の先輩に小声で言った。
「えっ、大丈夫?うん、行ってきな」
一番気の許せる優しい先輩に嘘ついて物音立てない様そっと静かにスタジオを出た。
外気は柔らかくて熱くなった身体をいい具合に冷してくれた。さっきまでの息苦しい空気とは違い、大きく深呼吸を数回すると脈拍も気持ちも正常に戻っていた。
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