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1.からめとられて
「いっしょに抜け出さない?」
彼の声が私の耳の中にすとん、と落ちてきた。
色気なんてない、居酒屋のトイレの前。壁には破れかけたビールの広告が貼ってある。ちょっと暗めの電灯の下で彼は私を待っていた。
そのやけに自信たっぷりの顔で。
「抜け出すって。だってこれから二次会ですよ? 会費のこともあるし。それに」
それに。で私は言葉を切る。
彼、職場の先輩である広田 修には、同じ職場に彼女がいる。
私の指導係をしてくれている高槻 香先輩だ。
営業部のトップで背が高くて目元が涼しくて。女子社員の憧れの的の広田さんと、小柄で丸顔でいつもにこにこと細い目をなおさら細くして笑う優しい香先輩。
正直お似合いとはいえない。香先輩は明らかに地味系だし、華やかな広田さんがどうしてあんな人が良いだけの子と、と社内でも噂になっている。
でも、私は香先輩が好きだった。香先輩はいつだって私の味方でいてくれたから。
私がどんなミスをしても香先輩だけは私をかばってくれたから。
その香先輩の彼氏と抜け出す? あり得ない。
そう思っている私の頬に広田さんはそうっと長い指を触れる。
「香とはもう、終わってるから」
そう言われて思い出す。確かに香先輩と広田さんは最近全然会話をしていない。
心が揺らぐ。だめだ、と心が叫ぶ。でも気がついたら私は頷いていた。
私の目の前でぱっと大輪の花が咲くように広田さんが笑った。
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