魔王がいない世界で今日から勇者

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 娘は、双剣を壁に立てかけ、かまどに火を(おこ)していた。 「……豆と魚のスープくらいならあります。魚は、鱗だけですけど」 「魚のスープかなあ、それ。というか、施してくれるのか」 「一応正教信者なので。そんなに痩せていれば、飢えかけているのは本当なのでしょう。……あと、さっきからお腹の音が凄まじいです。荷物の中に、獣でも入れてるのかと思いました」 「フ。さすがに勇者ともなると、腹の音も桁が違うようだな。ところで今くべた(まき)、椅子の足なんじゃないのか?」 「お構いなく。もう使わない椅子なので。でも本当に、寝食に困っているのなら、ハイ・テンプルの近くの家の方がいいですよ。この辺りは貧乏人の集落で、男の人は一山当てようって出稼ぎに行って、女の人は教会から仕事をもらって生き延びているような有様ですから」 「それでか、どうも静かだと思った」  私は、娘が温めてくれたスープを、柄の折れた木のスプーンで口に運んだ。  陶器の器と木のスプーンだと、当てたりこすったりしても無粋な金属音がしなくてよい。 「うまい。塩の味がする」 「お祈りくらいしてから食べてくださいよ……。それに正しくは、塩の味しかしない、でしょ。一昨日半分残したスープにお湯を入れて、昨日もさらに半分に薄めたんですから。本当、末期の食事って感じです」 「君も食べたまえ。ここにウイキョウとウサギ肉のかけらがある。入れよう」 「えっ!? どこでそんなごちそうを!? お肉なんて久し振りです!」 「フフ。勇者だからな」 「いえ、最近の勇者は基本的に人から物をもらってばかりで、与えたりしませんよ。うちのお父さんだって勇者やってるんですけど、もう一年も行方知れずで。お母さんの命日にも戻って来ないんですから」  娘は、私が渡した材料をスープに入れると、自分でも食べ始めた。  彼女の頬がほころび、顔が桃色に染まるのを見ていると、気分がよかった。 「しかし、君の言う最近の勇者たちは、故郷を出てウロチョロと何をしているんだ?」 「ですから、一応は魔王を倒そうとしているんだウサ」 「久方振りに肉を食べるとその肉に由来した語尾になるというのは驚きの習性だが、それはそれとして、魔王なんてもういないだろう」  娘が目をむいた。 「何を言ってるんですか。それでも勇者ですか? 確かに、南の『虎狼の魔王』」や西方の『いばらの砦の魔王』はずっと昔に退治されました。けれど、それらをはるかに上回る魔力を持つという、北方の『深淵の魔王』は健在のはずです」 「それは誤りだ。事実ではない」  娘が頬を膨らませる。 「確かに、深淵の魔王は地下五十階とも言われるダンジョンの最下層にいるそうで、誰もその姿を見た者はいません。実在しないとも言われています。でも、古文書では確かに、四千年前にその存在が記録されているんです。この大陸の、最後にして最強の魔王ですよ」 「でももういない。十日くらい前から」 「近っ。なんでそんなこと言えるんですか」  私は、歯に挟まったウイキョウの筋を舌先でねぶりながら答えた。 「私が深淵の魔王だ。でも、今は勇者をやっている」 「……え?」 「君のお父さん、勇者ワールウィンドから、私は『勇者』を託された。勇者は魔王ではあるまい。だから深淵の魔王はもういないのだ」 ■
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