魔王がいない世界で今日から勇者

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 私と娘は一度家を出て、近くの山へ出かけた。  二時間ほどが過ぎて、空に夕暮れの気配が増してきた頃、再び家の中に入った。  娘は、何やら絶望的な表情をして、テーブルに肘をついて頭を抱えている。 「そんな……あなたが深淵の魔王……うそ……」 「本当だというのに。見ただろう、今、私の力を」 「い、言わないでっ! 山を、山をあんな風に……これ夢……? あんな巨大な岩山が、一瞬で……」 「まだ信じてくれないのなら、もう一つ二つ、手ごろな山を」 「山は基本的に手ごろじゃありません! それにあなたが魔王なら――」  娘が、きっと私を睨んだ。 「――お父さんは、あなたに挑んだんですね……そして、返り討ちになった……! そうですよね、お父さんめっぽう強いわけでもないですし、当然です! 私何やってるんだろ、お父さんの仇に、施しなんて……!!」  娘が歯噛みし、ぎしぎしという音が私まで聞こえる。 「何が、何が勇者ですか! 人殺し! そりゃ魔王ですもんね、それが仕事みたいなものですよね! いいですよ、私だってもう、お金もないし家族もいなくて独りぼっちだし、将来なんてどう考えても夢も希望もありません! お父さんも音信不通だったこの一年、これからどうやって生きていくか――生きていかなくてもいいかな、なんて考えてたんですから! 好きにしたらいいじゃないですか! 殺してください! 身の程知らずにもあなたに立てついた、情けない勇者の娘を! ほら!」  娘は泣いていた。  しかしその双眸は、刃のように鋭く私を睨みつけている。 「私は、君のお父さんを殺してなどいない。その前に、戦ってもない。そもそも今までにも人殺しなんぞしたことはない」 「何言ってるんですか! 深淵の魔王が、そんなわけ……」 「いかにも私は深淵の魔王だった。魔王であるからには、大量虐殺とか世界征服をしようと思っていた。しかし」 「しかし!?」  私はあごに手を当て、 「深淵というだけあって、ダンジョンが深すぎてな」 「……? はあ」 「あまりに深淵すぎて誰もやってこないから殺せないし、深淵にいるから世界征服もできない。 あまりに暇なので深淵ダンジョンを出て、地上との出入り口のあるマルノヴァル大草原を歩いていたら、飢えて死にかけた一人の男と出会った。 名前を聞いたら、ドルドロイ公国生まれの勇者ワールウィンドだという。 名前聞いただけなのに、住所から生い立ち、父子家庭で一人娘がいることまでベラベラしゃべった。 あれはもう、今わの際の、私に娘をなんとかしろという言外の要請だったのだと思う。 公国の居住証明の入ったネームタグまで渡してきたから その後で私が深淵の魔王だと名乗ったら、ものすごくびっくりしてたな」 「ああ……お父さん、そういうところあるので……」 「で、奴は私の前で死んだ。ただ私は魔王なので、その直前に一応『私は深淵の魔王だから、お前が我が配下になるのなら、なんなりと望みをかなえてやるぞ』と勇者を勧誘したんだ。これは魔王のたしなみだからな。すると奴は、できることなら勇者を引き継いでくれと言ってきた。で、私にできないわけがないので、私が勇者になった」 「じゃあ……あなたは、お父さんを殺したわけじゃ……」 「うむ。餓死だからな。そういうわけで、深淵の魔王はもういない。いるのはこの、新米の勇者だ」
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