虹かけるヤドカリ

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僕も、死んだあのヤドカリみたいだ。 初夏の雨上がり、渋谷駅ハチ公前。 上原晴海は日曜の喧騒に包まれながら待ち合わせにくたびれ、 ぼんやり思い出していた。 先日ネットで見た、海底の、寂寥とした風景を。 海底にうち捨てられたタイヤの中に、入り込んだヤドカリが脱出できずに ひしめくように死んでいた。 窮屈になった貝殻ものりかえられず、閉ざされた世界で、悲鳴もあげず、朽ちて死んでいく。 晴海は16歳の高校生である。 自分の人生を振り返ると、ピカソの青の時代のように 暗澹たるブルーに染まる。 違和感をはっきりと認識したのは、小学校入学前の制服受け渡しの時。 女子の制服のスカートを見つめる晴海に与えられたのは、 陸軍幹部の制服めいたジャケットとズボン。 母に「スカートがいい」と何度も訴えた。 「男の子は、男の子のお洋服。女の子は、女の子の制服。 これが、普通なのよ。普通でない子は、世間から弾かれてしまうのよ」 母は目をそらして言った。晴海の哀訴は、世間という乾いた渦に没した。 普通て、何なのだろう。世間って、何だろう。 世間とやらに弾かれたら干からびて死んじゃうのかな。 でも、 あんな勇ましがりの制服なんか着たら、僕は僕でなくなるー。 入学式の前の日、晴海はその制服のズボンをハサミで切った。 スカートのプリーツのヒダヒダを作りたかったのだが、 ズタボロのタコの下半身みたいになった。 その後、母親にしこたま叱責され、入学式は予備のズボンで登校させられた。 小学校に上がってからは、違和感は苦痛に高じた。 母親から与えられる洋服は男の子用だったし、、男子トイレを使わないといけないのが苦痛だった。 一年生の時、誕生日プレゼントはリカちゃん人形をお願いした。 デパートでいつも、バタくさいその人形を眺めていた。 母親は怪訝な顔をして、 「男の子なのに、みっともないこと言うんじゃありません」と一喝した。 結局、意に沿わない仮面ライダーのベルトをくれた。 母は、長年の夫の単身海外赴任でストレスが溜まり、やや陰気な性質を帯びていた。厄介ゴトはまっぴら御免体質になっていた。 お父さんがいたら、リカちゃん人形を買ってくれてたかな。 晴海はドイツにいる父を想った。 翌日、ベルトを持て余した晴海は、隣の家へベルトを持って侵入した。 目標は、忠犬ペス。「忠犬」という札が犬小屋に貼り付けてあるのに、のんきに犬小屋の外の陽だまりに丸まって寝ていた。 しめしめと、ペスの腰にベルトを巻き付けた。 体をくねって困惑するペスを背に、逃げるように去った。昨日の夕飯の残りである手羽先もセットの素晴らしい置き土産だ。  晴海は、高校生になってから、洗面所の鏡をよく覗き込む。 ゆっくり頬を上下に撫でながら、考える。 みんなには、僕がどう映っているんだろう。 純度100パーセントのピュア男子に見えるのかな。 男の皮をかぶった女に見える人はいないのかな。 「心の性別が見える眼鏡」なんて発明、あれば良いのに。 肌のきめは細かい方だし、ヒゲは家庭用レーザーでまめに脱毛している。 髪の毛だって、手入れを欠かさない。後頭部から見ると、晴海の肩近くまで伸ばした髪は、黒い上質な絹織物のようだ。爪先は怪しまれない程度に 磨いている。 初夏の渋谷の射すような陽差しが、晴海の体を茹でる。 走馬灯のような、おぼろげな想い出が晴海の頭の中を回遊する。 美穂は、いつも珍貴な動物でも見るように、僕を見ていたな。。 美穂は、忠犬ペスの飼い主で、隣に住んでいる美術部の同級生だ。 昔から、やたらとまとわりついてくる。 晴海と付き合っていると言うデマも流れているが、 晴海は特に気にしていない。 「晴海といると、女として自信がなくなるよね」 そう睨んで、己の柔らかな巻き毛を指先で弄ぶ美穂。 晴海は、美穂のような髪になりたい、と思う。 柔らかくて細くて、男に指でかき分けられたら、すっと、溶けてしまいそうだ。 晴海は髪に高いお金をかけて縮毛矯正をかけている。 人工的な力で、本来の力強くうねる髪の毛を圧伏している。 僕は、僕の髪をひれ伏せる。 世間は、僕をひれ伏せる。 そう思うと、晴海は、哀しい展望の予感に襲われる。 ハチ公前は、 人間が巣穴から湧いてきたアリのように群がり、ざわめいている。 美穂に突然 渋谷で待ち合わせを乞われ、わざわざ 混んでる日曜に来たのだ。 美穂の生粋の我がままぶりに困惑したが、 行き交う人を見るのは楽しい。 男みたいな女、女みたいな男、老人みたいな若者、若者みたいな老人。 フランス人形の格好をした顔面市松人形女子。 唇やら耳やら、あちこち釘が刺さっている自傷型パンク男子。 みんな、それぞれの格好をして、 自分というアイデンティティを武装している。 みんないっそ動物になれば良い。 アイデンティティで悩むなんて、人間の最たる愚行だ。 動物になれば、自分はオスかメスか、 自分はどうあるべきか、なんて愚問は沸かないだろう。 美穂が人間の群れから姿を現した。 「ごめんごめん、待ったよね?」 奇妙なことに、やたらフリフリ女々しい服を着て、甘い果実みたいな コロンの香りがした。走ってきたのか、顔は火照ったように紅潮している。 色気づいた羊みたいに、不気味に思えた。 「別に良いけど、やたらめかし込んで、どうしちゃったの」 晴海がそう尋ねると、美穂がだしぬけに腕を絡ませてきた。 ねっとりとしたメスの匂いにむせるようで、晴海は反射的に腕を外した。 「やめろよな、カップルみたいなこと。そんな仲じゃ、ないだろ」 美穂は、晴海をしばらく凝視した後、しゃがみこんだ。 アルマジロみたいに丸まって 「じゃ、どんな仲だって言うのよ!私の気持ち、気づいてるんでしょ」 と叫んだ。 「気持ちってなんだよ、何でも以心伝心の老夫婦じゃあるまいし。  竹馬の友でも、相手の気持ちなんてわからないよ」 「チクワの友って何よ!ミホは、ずっと、春海のことだけ、 見てきたのに、側にいたのに。。。 今日だって、勇気出して、デートに誘ったのに。。」 美穂はチワワのごとく甲高く吠えたてた。 「竹馬の友だよ。。」 ツッコミをどうにか入れながらも、晴海は冷水をかけられた気持ちになった。 女心は複雑、とはよく言う言葉であるが、 隣にいた幼なじみを好きになるなんて、単純なラブコメ みたいで恥ずかしいないのか。 残念ながら、僕の人生は、それほど単純じゃ、ない。 「じゃ、美穂は、僕の気持ち、気付いてるの?」 「美穂といると楽しい、っていってたじゃない!」 興奮した猿のように顔を真っ赤にして美穂は睨みつける。 顔にかけてるマスクに引火し、炎が燃え上がりそうなほどの憤怒。 「僕の言いたかったのは、同性といるみたいで楽しい、てことだよ」 美穂は訝しげな顔をして、ひとしきり考えた。 「ミホが男みたいってこと?」と、目を剥いて反駁した。 「違う。女同士、てこと。僕は、同性として、美穂を好きだよ。でも、美穂に、女に欲情することは出来ない。」 美穂がふらふらと立ち上がった。 「僕は、体は男として産まれたから、男になれ、と言われて、男の仮面をかぶって生きてきた。 親も心配するし、本当の自分なんか、社会の枠におさまるとは思えなかった。でも、どうやら限界なんだ。僕の魅力が、美穂を泣かせるのなら、男の子ごっこは、卒業だ。これからは、臆することなく、スカートを履く。 僕は、美穂のスカートやリボンを、むしり取りたいほど体に巻き付けたかった。女の子なら、フリルに憧れて当然だろう。そして僕は、きっと誰よりフリルが似合う。」 美穂はうつむいて思考した。 「そっかぁ。。。そっか。。。。女の子だったのか。。 晴海って、春の海だもんね、海は、万物の母だもんね。最初から、 晴海は女だったんだね」 「母にはなれない海だけどね」 「でも、なりたいものには、なれる時代だよ。よし!」 美穂は、晴海の腕をとり、人混みをかき分けすり抜け喧騒の街を貫き、 ようやく晴海の家まで誘導した。 「晴海の制服、持ってきて」と美穂は顎を上げて言った。 「なんで今、制服?」 「いいから!」 晴海が制服を持ってくる間、美穂は画材を家から手当たり次第かき集めた。 二人が集合すると、美穂は、晴海の制服を庭に放り投げた。 「何すんだよ」 美穂は、画材バッグから絵の具を取り出し、手当たり次第、絵の具のチューブを親の仇のごとく押しつぶし、晴海の制服に噴射、撒き散らした。 ズボンとジャケットが、みるみる色彩豊かに彩られた。 年老いた忠犬ペスが、小屋から伏せの格好で、じっと事態を見ている。 晴海は、異星人のご乱心を見るような視線を美穂にビームした。 1本残らず絵の具を使い切った。 近代アートのオブジェに化した制服を横目に、美穂は手を叩いた。 「言ったよね、卒業、だって。とにかく、うち、入るよ」 美穂は拉致するように部屋に晴海を引きこむと、 クローゼットを勢いよく開けた。 高校の制服のセーラー服を一着取り出し、ベッドに放り投げた。 「着なよ。一着、あげる」 晴海は 展開についていけなかった。 けれど、念願のスカートを履くという禁断の行為が、 おてんばな女神が受容したような心もちになり、着ることにした。 そうだ、卒業とは、何かを捨て何かを得ることなのだ。と 言い聞かせた。 てんやわんやで着ることは出来たが、いくら細身の晴海といえども、スカートのホックを留める事は出来ず、安全ピンで留めた。 「晴海。目、閉じて」 美穂が、桜色のリップを春海の唇にのせた。 「ごめん、私のリップだから間接キスになっちゃったね。 女の子同士だから許してくれるでしょ?さ、鏡見て!」 鏡台の前に立つと、晴海は、別人が立っているような、 本来の自分がいるような、混沌とした気持ちになった。 しばらくして、ふわっとした。あるべきところにいる、という 柔らかい雲に包まれたような多幸感に包まれた。 「切り替えが早いんだな、美穂は」 「私、晴海と一緒にいられるなら、 竹馬のホモにでもなんでも、なれるよ」 「だから、竹馬の友だよ」 「女の子が、ペスにあんな酷いことしないと思うけどね。 ペス、あの時、ベルトを外そうとパニックになって、大変だったんだから。 でも、あの仮面ライダーのベルト、私が今も大事にしてるって、知ってた?」 美穂は、押入れから「宝箱」と落書きされた 古びてくたびれた箱を取り出した。 その箱から 「ふふっ」と踊るようにベルトを取り出し、自分の細い腰に巻き付けた。 ベルトは、ペスが噛んだらしく穴だらけだった。 両手をカマキリみたいに手をかざし 「へーんしん!」と美穂が叫んだ。 「なかなか似合っているよ」晴海は応酬した。 「ミホの中にも、男の子はあるもんね。晴海も、悔しいくらい、似合ってるよ」 美穂が白い歯を見せて笑った。 疲れたのか、美穂は「ふうっ」とため息をついて、ベッドに倒れ伏した。 「晴海、あんたが女の子になりたいのはわかったけど、 今までの晴海を否定しないでね。ミホは、男もどきの晴海が好きだったんだから。これから先、色んな障害があるんだろうけど、全部、晴海なら高く飛べるよ。きっと、晴海のジャンプは、綺麗だよ。大きな虹を描くよ。。。」 言いながら、美穂は睡魔に捕獲され、寝息を立て始めた。 晴海は、美穂に布団をかけながら、 今度の誕生日は母にセーラー服をねだろうと想った。 いやいや、やっぱり、バイトして自分でセーラー服を買おう。 スカートだってワンピースだって、買わなくてはいけない。 バイトするなら、どんなバイトをしようかな、 可愛い制服のアイスクリーム屋なんかがいい、と夢想した。 面接に合格しても、店長は、女子の制服を着せてくれるかな? 背負ってた殻を、脱ぎ捨てる。 男からの、卒業。女になれるなんて、妄想かな? でも、前に進む限りは、行き先は絶望じゃない。 あの廃タイヤの中で果てたヤドカリたち。 来世で好きなだけ貝殻を交換して、楽しく生きて欲しい。と想った。 窓から、世界の始まりを知らせるような、忠犬ペスの遠吠えが聞こえた。
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