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「元プロボクサーの安西亮を呼べ」
ライト級チャンピオン、間宮二郎はそう言った。
間宮と安西は同じ階級に身を置くプロボクサーで、ライバル同士だった。これまでの戦績は六戦三勝三敗。二人の七戦目が決定した時、格闘技ファンの誰もが胸を躍らせ、因縁の対決を指折り数えて待望していた。
しかしその試合のゴングが鳴らされることはなかった。間宮より一足先にタイトルマッチに挑戦した安西が、相手選手の強力な打撃により脳出血を起こし、死亡したためである。
その突然の訃報に、ファン達は悲しみに暮れたが、誰よりも意気消沈していたのは他でもない間宮であった。ライバルを失った間宮は、一心不乱にトレーニングに打ち込んだ。厳しい鍛錬だけが、間宮の悲しみを紛らわせてくれた。オーバーワークだとトレーナーが制止するのも聞かず、ただ黙々とトレーニングに打ち込んだ。
そして三カ月前、遂に間宮は安西の命を奪った相手を倒し、ライト級チャンピオンの座を獲得したのだった。しかし間宮の表情が晴れることはなかった。
「本当ならチャンピオンになった安西を俺が倒して、因縁に決着がつくはずだったんだ」
間宮はバッグからチャンピオンベルトを取り出し、畳に叩きつけた。
「安西亮を呼べ」
間宮の対面に座っていた齢九十八の老婆は、ゆっくりと、静かに頷いた。
そう、ここは日本随一の霊場、恐山。間宮はイタコに安西を降霊させようとしていた。
しばしの沈黙の後、老婆が一瞬身体を震わせ、ゆらりと立ち上がった。間宮が投げ渡したバンデージを、慣れた所作で拳に巻いていく。老人には到底不可能なその所作に、間宮はニヤリと笑って「降りてきたな」と呟いた。お互いにグローブをはめて、ファイティングポーズを取る。独特なフットワークを刻み始めた老婆には間違いなく、現役時代「狂犬」と呼ばれた安西亮が宿っていた。
もはや二人の間に言葉は要らない。仏像が見守る八畳ほどの和室で、間宮二郎初の防衛戦、そして安西亮との因縁の対決が密かに始まろうとしていた。
数十分後、畳の上に大の字で気絶していた間宮は、ようやく意識を取り戻した。三ラウンド目、安西の右アッパーが自分の顎を貫いた瞬間から記憶がなかった。
「俺は、負けたのか……クソ、勝ち逃げなんて許さねえぞ。また来るからな、あの世でトレーニングして待ってろ、安西」
腰にチャンピオンベルトを巻いた老婆が、間宮の眼前で華麗なシャドーを披露し、その言葉に応えた。
敗戦後にも拘わらず、恐山を後にする間宮の表情は晴れやかだった。
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