第2話 「本当に欲しいものは、どうせ何ひとつ手に入らない。」

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第2話 「本当に欲しいものは、どうせ何ひとつ手に入らない。」

af846a67-a653-42ee-af21-14beb3a6d383(Briam CuteによるPixabayからの画像 ) 「なにかお手伝いいたしましょうか、お客さま」  白石の静かな声に、大男は頭をガリガリとかいて笑った。   「ああ、わりいね。部屋から追い出されちまって。ちょっとした痴話げんかってやつだ」 「さようですか」  冷静に答える、"さようですか" と。    白石の恋は、一瞬で終わった。  大男は"痴話げんか"と言った。つまりカップルでの宿泊だ。  当たり前だ、これほど佳い男にパートナーがいないはずがない。  ゲイ好みの男、パートナー、痴話げんか。そして勤務先ホテルのゲスト。  すべての条件が白石に、エンドマークを突き付けていた。  そして白石はあきらめることに慣れている。   だが、そこでもう一度、男の声が聞こえた。 「なあ、もう一部屋、いまから取れるか? 浮気がバレて、あのヤロウに部屋を追い出された。カンカンなんだよ、たぶんもう部屋には入れてくれない」  ふむ。ひょっとするといまの恋人と破局するかも。おれにも、数グラムの可能性はある……。  白石は頭を振った。きれいにワックスで整えた髪が、ほろりとひたいに落ちた。  ばかばかしい。そんなことが起きるはずがない。少なくとも白石糾(しらいし ただす)には、起こらない。  本当に欲しいものは、何ひとつ手に入らない。  どうせこの十年、決まった恋人もいないんだ――。  白石は、あらためてホテルマンの顔を作って笑った。 「では、お部屋をご用意しましょう。お手数ですが、レセプションカウンターまでおいでください。こちらへ――ご案内いたします」    白石がエレベーターに向かいかけた時、ふっと、温かい息が耳にかかった。 「あんた、ゲイだな――欲情、したんじゃねえの?」  ああ、くそ。  なんて答えるのが、正解だろう?  いや、正解なんてどうでもいい。職場の廊下だろうが何だろうが、コイツを今すぐ押し倒したい。それがおれの本音だ。  だが、白石は静かに口を開いた。 「個人的な質問には、お答えしかねます――。 それより、客室はご用意できますがお荷物はどうなさいます。お部屋に置いたままなのでは?」  大きな男は返事もせず、さっさと白石を追い抜いてエレベーターに向かっていく。白石があわてて駆けよると、男は平気な顔で答えた。 「荷物なんかねえから、いいんだよ」  ぴきーん!!  白石の中で警戒警報が鳴りひびいた。  荷物は、ない?  こいつ――まともなゲストじゃないかも。  まさか、”スキッパー”か?  ”スキッパー”とは宿泊代を支払わずに逃げるゲストだ。  ふつうに宿泊予約を取ってチェックインし、翌朝は客室内にバッグをおいたまま外出する。そして二度と、戻らない。   もちろんバッグの中身はゴミだ。  白石は、13年のホテルマン人生でありとあらゆるゲストに遭遇してきた。"スキッパー"に会ったのも一度や二度ではない。  だからにこやかな表情を崩さずに、目の前の男に尋ねた。 「本当にお荷物はございませんか? 本日はご宿泊だったのでは?」  白石の全身から熱が消え、凍るような冷静さが満ち満ちた。  大男は白石を見おろし、ニヤリとした。 「へえ……あんた、ただの男じゃねえな。」  その言葉を聞いた瞬間、白石は大男にすり寄り、手首をビシリとつかんだ。  コルヌイエホテルで宿泊代の踏み倒しなど、させるものか。  しかし、次に白石が発した言葉は、かなり情けないものだった。 「……あっ……!」  とろり、と。  大男が間合いに入った白石の耳に舌をすべりこませたのだ。  あたたかく、やわらかい舌が、耳の中を探っていく。  あまりの快楽に、白石の目の前が白く、白く消え失せていく――。
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