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第18話 「ただの色恋の話じゃない」
(imediasによるPixabayからの画像 )
「――先輩、先輩!」
白石糺は耳もとでそう呼ばれて、はっと意識を取り戻した。
すぐ目の前に、コルヌイエホテルの後輩、井上清春の端正な顔がある。
白石は夢からさめたように数回まばたきし、それからようやく答えた。
「ああ――わるい、井上。なんだって?」
「先輩、もう上がりの時間ですよ。あとはおれが引き継ぎますから」
「そうか。すまない、ぼんやりしていたよ」
白石がまわりを見わたすと、そこは老舗ホテル、コルヌイエのレセプションカウンター裏、バックルームだ。狭いスペースにパソコン用デスクとパイプいすを置き、備品やファイルが並ぶ棚があるだけの殺風景な場所。
殺風景な場所だが、コルヌイエホテルに入職してすでに13年になる白石にとっては、自分の部屋よりもなじみのある場所だ。
入職してから過ごした時間の長さから言ったら、自宅マンションよりもコルヌイエホテルのほうが長いかもしれない。
そんななじみの場所でさえ、意識をしっかりととどめておけないほど白石の頭の中は浮遊していた。
――あの男は、いったい何なんだ。
知り合ってまだ10日しか経っていないのに、すでに白石の頭の中には山中の巨体がどっかりと居座っている。
『よせ、もう考えるな』
ぶるっと頭を振り、バックルームのパイプ椅子から立ち上がる。その姿を井上が疑わしそうな顔で見た。
「先輩、疲れてきているんじゃないですか。日勤だけとはいえ、連勤はきついんですよ。明日はおれが日勤をつとめます」
「疲れているわけじゃないんだ。ちょっと、眠れなくて」
「先輩、前から眠れないって言っていましたね――何があったんです?」
井上の切れ長の目が、シルバーフレームの眼鏡ごしにじっと白石を見た。
「――なにか複雑な理由があるんですか」
「複雑……そうかもしれないな」
白石が答えると、井上はすっくりと立ち上がって詰め寄ってきた。
井上の、トワレの匂いがする。
柑橘系の爽やかな香り。つけていても他人の気を引きすぎない、控えめながらもするべき仕事をきっちりとする香りだ。
この香りは井上に似ているな、と白石は思った。
「先輩、おれに出来ることがあれば言ってください。おれだって先輩に世話になっているんですから」
「世話? 俺がお前を助けたことなんてあったかな」
井上は声を低めて、
「おれは、先輩にはうちの親父のことだって話します。先輩だけです」
白石は井上を見た。
仕事ができて容姿端麗なのに、あまりにも他人を受け入れない男。
その遠因が、コルヌイエホテルのオーナーである父親との、20年以上にわたる確執にあることを白石は知っている。
「会長とお前のことはプライベートなことだ。気にするな」
「あのくそ親父との仲を今さら修復しようとは思いません。ただ、あっちがおれを放っておいてくれなくて」
井上の言い草に、白石は明るく笑った。
「そりゃそうだろう。俺が会長でも、おまえのことを放っておかないよ。たった一人の息子じゃないか。それも、出来の良い息子だ」
白石がそう言うと、井上は露骨に顔をしかめた。
「親父のためにホテルマンになったわけじゃありません。おれはコルヌイエが好きだから、ホテルマンになったんです」
「それで正解だ。お前は好きな職場で好きな仕事についている。何が不満だ?」
「不満なんてありません。おれはコルヌイエに惚れていて、このホテルに骨をうずめるつもりです。でもそれだって、先輩なしじゃいやです」
井上の整った美貌が、正面から白石を見すえていた。
「今さら、先輩を他のホテルに引き抜かれちゃ困るんです」
おいおい、と白石は見当ちがいの話に困惑した。
「引き抜き?」
「だって先輩が眠れないほど悩むだなんて、引き抜きくらいしか考えられないでしょう。
相手はどんな条件を提示してきているんですか?」
井上は声を低めた。
「――どんな条件だろうと、もっといい条件を提示しますよ、おれが」
「ばか、お前も何を言っているんだ」
「本気です。先輩のためなら、おれはあの親父に頭を下げます。
ポジションでも昇給でも手に入れてきます。おれを信じてください」
白石は絶句した。
なにか答えたいが、あまりにも見当違いすぎる話で、どこから説明を始めたらいいのか分からない。
とりあえず井上の肩に手を置いた。
見た目よりも、みっしりした厚みを感じさせる肩だ。細身に仕立てたテイラーメードのスーツの下に、井上清春はしなやかな、はがねのような身体を隠している。
今ではもう、恋人ひとりにしか触れさせない美しい身体。
白石は静かに言った。
「井上、俺がこの世で本気で信じているのはお前くらいだ。安心しろ、俺がコルヌイエをやめるわけがないだろう」
「本当ですか?」
井上はまだ疑わしいという顔をしている。白石はあらためて笑顔を作り、
「本当だよ。俺はまだ、俺が見たいと思っているものを見ていないからな」
「先輩の見たいもの?」
井上が切れ長の美しい目をそばめて、考え込んだ。
「先輩の見たいもの……なんだろう。思いつきませんね」
「あててみろよ」
そう言いながら、白石は長年の片恋に別れを告げた。
愛していたよ、井上。
だけど今はもう、俺はもっとややこしい男に恋をしている。
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