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第5話 恋なんて――もう落ちたいとも、思わない
(slightly_differentによるPixabayからの画像 )
白石は心臓の音を静めながら、部下の西川にたずねた。
「お客さまは、客室カテゴリのご希望をおっしゃったか?」
「はい、開いている部屋があれば、どこでもいいそうです。あと、お支払いは先になさりたいと。クレジットカードをお預かりしました」
西川はプラスチックのカードを差し出した。
白石はちらりと見て、ただうなずいた。そして目の前のパソコン画面を見直す。
「――よし。8階のクオリティセミダブルにご案内しろ。822のお部屋だ。
あ、デポジット(事前預かり金)をいただいてもいいか、ゲストに確認してからカードを通せよ」
「はい」
と、西川はカウンターに戻りかける。その小柄な姿に白石は声をかけた。
「西川。客室へのご案内は、ベルボーイの間宮(まみや)に頼め。こんな時間だし、男性ゲストおひとりだからな」
「ええ? 大丈夫ですよ、あたし。ご案内しますよ」
まだ20代半ばの西川は、怖いものなしという顔を向けてきた。白石はそののんきな様子にため息をつき、
「お前のためじゃない、ゲストのためだ。
万が一でも、そういう疑いをかけられるような状況にゲストを置くんじゃない。……とはいえ、その心配はない相手だがな……」
「ええ? 何ですかあ?」
西川が聞きなおすのを白石は押しとどめ、早くカウンターへ行くように命じた。
「ゲストをお待たせするな。ああ、ベルにはバゲッジ(荷物)はないと伝えろよ」
「はあ。白石さんがいきなり客室フロアから連れてきたゲストで、しかもノーバゲッジなんて。いったいどういう方ですか?」
白石は首を回して、こきっと小さな音を立てた。
「さあな。ゲストのプライバシーには踏み込まないのがホテルマンの鉄則だ。早くルームへご案内しろ」
西川がカウンターに入ってしまうと、ふう、と白石はため息をついた。
ゲストのプライバシーには踏み込むな?
じゃあ、ゲストはホテルマンのプライバシーに踏み込んでもいいのか。
白石の唇の上にはまだ、あの巨きな男の体温が乗っている。
温かく、柔らかく。
欲情をあおるがごとく。
もう一度ため息をついてから、ちらりと、西川が置いていったチェックインシートを見る。
あの奇妙なゲストの情報を知ろうと思えば、すぐにわかる。
ゲストの氏名、住所、誕生日はチェックインシートに記入されている。クレジットカードの利用データと照らしあわせれば、少なくとも本名はわかるだろう。
問題は。
白石がそれを知りたくてたまらない、ということだ。
そして知れば、もう止まれなくなるような気がしていた。
白石は薄暗いバックルームでつぶやいた。
「いまさら、恋をしてどうなる?」
三十五歳、ホテルマン、ゲイ。
恋なんて――もう落ちたいとも、思わない。
そろっ、と。白石の手がチェックインシートに伸びた。
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