第6話「二番手の男」

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第6話「二番手の男」

b54ee2ba-38a7-4364-8ea8-0978b680903a(PexelsによるPixabayからの画像 )  だが、白石は謎の男が書いたチェックインシートを見なかった。  興味がないわけではない。  くわしく知ると深みにはまりそうな気がしたからだ。  もっと言うなら、どこかで共通の知り合いにつながっていくのも怖い。  なぜなら、白石糺(しらいしただす)は、自分がゲイであることを公表していないからだ。自分の性的嗜好を恥じるわけではないが、ホテルマンは夜勤が欠かせない職場だ。男どうしで仮眠室を共有することもある。そんなとき、一緒に休む同僚や部下に余計な気をつかわせたくなかった。  それに白石の恋愛関係と職場は大きくかけ離れており、あえて同僚や部下に自分がゲイだと、知らせる必要も感じない。  とはいえ、なんとなくモヤモヤした気持ちが残ったまま、白石はいつもどおりに働いた。  そのまま白石は謎の大男と会うことはなかった。  あれから何度目かの夜勤明けの朝。  コルヌイエホテルのバックルームで後輩のアシスタントマネージャーである井上清春(いのうえきよはる)に引継ぎをしつつ、白石はあくびをかみ殺していた。  目の前にいる井上がくすっと笑った。この男、ホテルマンにしておくにはもったいないほどの美貌だ。すっきりした目元に形の良い額。タブレットを持ち、パイプ椅子に座っているだけでサマになる、モデルのような男だ。 「珍しいですね。白石先輩があくびをするなんて」 「ここのところ、眠れなくてなあ」  白石がぼやくと、井上はちらっと周囲を見まわした。誰もいないことを確かめてから、すすっと身体を白石に寄せてくる。井上のさわやかなトワレが香ると、それだけで白石はゾクリとした。  テノールの声が聞こえる。 「あれですか、“女関係”ですか」  白石の顔が赤くなった。それをみて、井上が端正な顔をほころばす。 「やっぱりね――先輩の恋愛話、いつか聞かせてくださいよ」 「バカ。お前に言うような話はないよ。そっちこそ、このところ機嫌がいいじゃないか。幸せなんだな」 「ええ、まあ」  と井上は恥ずかしげもなく言った。 「今はもう、一人じゃありませんから」 「お前なあ……」  言いかけて、白石は口をつぐんだ。  井上清春(いのうえきよはる)は複雑な家庭の男だ。  コルヌイエホテルを含む巨大ホテルチェーンのオーナー、渡部誠(わたべまこ)の息子であり、端正な姿と切れすぎる頭脳を持ちながらも、正式な子供として公表されていない。渡部の愛人の子供だからだ。  井上が、大学卒業後すぐにコルヌイエで働き始めて11年になる。  弱冠33才で、総客室数1500のコルヌイエホテルのアシスタントマネージャーとして順調に出世している。  しかし人を人とも思わない欠損した部分もある男だった――この春までは。  井上は、若いころからの友人だという女性とつきあいはじめた。  以来、「寸鉄人を刺す」といったような鋭さがやわらぎ、周囲のからの評価も大きく変わってきた。  今や井上清春は、単なる切れ者ではなく、頼りにできるアシスタントマネージャーとしてコルヌイエ中の信頼を集めている。  たったひとりの女性がこれほど井上を変えた。  この変化は歓迎されるべきものだ、と白石は考えている。  白石は目の前に座る美貌の男をじっと見た。  いずれ井上はコルヌイエホテルを率いることになる。思う存分に手腕をふるえるよう、現場を支えるのが白石の仕事だ。  白石はつねに二番手の男である。二番手のポジションこそ自分を生かす場所だと思っている。  そしてコルヌイエのてっぺんにかつぐ人間として、井上清春よりふさわしい男はいない。  それにしても、と白石はあくびにまぎらせてため息をもらす。  井上がこれほど美しい男でなければ、白石の仕事もずいぶんやりやすいのだが……。  そこにいるだけで白石の劣情をそそることが出来るのが、井上清春なのだった。  仕事の引継ぎを終えた井上は、立ち上がった。 「さて、引継ぎも終わりました。先輩はもう帰って休んでくださいよ」  そこへレセプションカウンターにいたスタッフが、にこにこしながらバックルームに入ってきた。 「井上さん、お客さまがお見えですよ」 「お客さま?」  白石は不思議そうに井上を見た。井上はかすかに照れたように笑い、腕時計を見た。 「来たのか。ちょっと早かったな」 「どなただ?」 「ちょっと佐江(さえ)が……その、ガーデン棟の会議室を」  ヘドモドする井上を妙な顔で見て、白石はさりげなくスタッフに尋ねた。 「どなたがおみえだ?」 「岡本佐江(おかもとさえ)さま。井上さんのカノジョさんですよ。ミーティング用にガーデン棟の会議室をご予約していらっしゃいます」 「へえ」 と、白石がカウンターへ出ていこうとするのを、井上がさりげなくさえぎる。 「先輩はもう仕事上がりでしょう。お疲れさまでした」 「なんだよ。いらしたのが岡本さんなら、俺だってご挨拶するよ」 「いりません、いらないんです。佐江を先輩みたいな良い男とは会わせたくないんですよ」  ふだんは冷静な井上が、耳たぶを赤らめて邪魔をする。  白石は笑って美貌の後輩を押しのけ、ゲストに挨拶すべくレセプションカウンターに出た。
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