2、悪夢

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2、悪夢

「ダンボールはそっちに入れてくれ。昨日届いたものは部屋の奥にまとめてある。午後にベッドが届くから、組み立ては……なんとかする」  声をかけると、大きな背中がくるりと回って満面の笑みを浮かべた理玖の顔が見えた。 「ハル兄は、そういうの苦手でしょ。大丈夫、俺、得意だから」 「ううっ……すまないな。腹が減っただろう、昼飯がもう少しでできるから」  ずいぶん会っていなかったのに、理玖は俺のことをまるでずっと見てきたみたいにピタリと当ててくる。  そんなに分かりやすい男だったかなと思いながら、パタパタとスリッパの音を鳴らしてキッチンに戻った。  リビングに溢れる柔らかな日差しを浴びながら、理玖は窓から外の景色を眺めていた。  その背中を見ながら、今日から一緒に暮らすのかとぼんやり思った。  他人と暮らすのなんて絶対に無理だと思っていた俺だったが、過去の罪悪感もあって理玖を引き取ることになった。  気疲れするかなと心配したが、理玖はまるで最初からそこにいたように俺の部屋に馴染んでいた。  一緒に暮らそうと声をかけたら、理玖は驚いた様子だったが、俺の手を掴んで嬉しそうに笑った。  きっと親戚が嫌がって押し付けあっていた事情をもう知っていたのだろう。  やっと自分の居場所ができそうだと安心したに違いない。  それが気まずい相手であっても、来年は卒業だし、しばらく我慢すればいい、そう思ったのかもしれない。  俺だったら、そう考える。  歓迎されない親戚の家を回るより、少しでも落ち着いた環境に身を置きたいはずだ。  これが手のかかる年齢だったら俺も大変だったが、理玖はもう自分のことは何でもやれる年齢だ。保護者として進路や学校とのやり取りをする必要はあるが、理玖の負担にならないように支えるつもりだった。 「理玖、会社はほとんど借金で遺産はわずかしかなかったけど、家を売ったからそれなりのお金にはなった。全てお前の口座に入れてあるから、生活費とか遠慮することはないし、進路も好きなところを選べ。医療関係だと多少足が出るかもしれないが、足りない分は俺が出すから」 「ハル兄……そんなこと言わないで。こんなにお世話になるんだから、自分のことは自分で何とかする。バイトだってやるし、ハル兄に迷惑をかけたくない」 「何言ってんだ。せっかくお前の兄さんになれたのに、今まで何もしてやることができなかった。俺の自己満足だから、こっちこそ迷惑かもしれないが好意だと思って受け取ってくれ」 「ハル兄……」  フライパンをパカっと開けると、いい匂いが漂ってきた。  男の料理とはまさにこれで、俺はフライパンでカレーやシチューみたいな煮込み料理を何でも作ってしまう。  料理長に知られたらまた笑われるなと思いながら、火加減を調節していると、すぐ横に理玖が立っていることに気がついた。 「いい匂い、今日はカレー?」 「引っ越しだし、蕎麦がいいかなと思ったが、若いやつはそれじゃ腹がもたないだろう。理玖はたくさん食べそうだし、ご飯も多めに炊いてあるからな」  ピタッと理玖は俺に体を密着させて、後ろから抱きしめてきた。  平均身長の俺は、理玖の胸の中にすっぽり収まってしまう。  驚いてビクッとしたが、そういえば理玖が小さい頃よくこうやって抱きついてきたことを思い出した。  可哀想にと、愛情に飢えているんだと思った。  母との関係がどうだったのかは分からない。  だが、幼い頃の理玖は母とはあまり打ち解けた雰囲気ではなかった。  今まで、こんな風に甘えることができる相手がいただろうか……。  大きくなった体で男同士がこんなことをするなんておかしいが、理玖の心は傷ついているはずだ。  そんな理玖を引き剥がすことなんてできなかった。 「……理玖、ほら、火のそばで危ないぞ」 「ハル兄、もう少し……もう少しだけこうさせて……」  仕方ないと俺は火を弱くして、俺の肩口に顔をうずめる理玖の頭を撫でた。  赤茶色で柔らかい髪は、あの儚げな少年だった頃のままだった。  ツキンと胸が痛んで悲しくなった。  傷ついた大きな子供、俺が守ってやらないといけない。  俺はしばらく無言で理玖の温かさに包まれていた。 「子供ができたって!? 結婚もしていないのに?」  淡々と説明したが、やはり同僚の塩崎は目を丸くして大きな声を上げた。 「俺の子じゃなくて弟だ。ちなみに高校生、一緒に住むことになった。こっちに転校して学校に呼ばれることもあるから、その時は迷惑をかけるな」 「ああ、ご両親のところにいた子か……大変だったもんな。いや、こっちはバイトも増えたから回せるし、何かあった時は気兼ねなく休んでくれよ」  俺はロッカーから仕事用のエプロンを取り出して身につけた。  仕事は飲食、チェーン展開しているレストランで、俺は店長で同僚の塩崎は副店長だ。  他に社員は料理長と調理担当が二名。後はバイトで店を回している。  飲食は薄給で過酷な仕事だが、職場の環境に恵まれて、休みは取りやすいし同僚も穏やかな人が多かった。  塩崎は二年後輩だが、俺のことをよく立ててくれて、気の使える優しいやつだ。  プライベートでもたまに誘ってくれて、スポーツを観戦に行くことがある。  すでに結婚して子供が二人、奥さん思いでもあり、一緒にいて気が楽な相手だった。 「それにしてもよく部屋が余ってたな」 「うちのアパートは駅から遠いから、部屋は広いんだ。物置にしていたからちょうど良かったよ」 「そうかー、でも弟君がいる間は、彼女を連れて来られないから困るだろう」 「はははっ、それは大丈夫だ。特定の相手はいないし、それより今は毎日の飯の支度のことで頭がいっぱいだ」 「相変わらずだなぁ。女にはモテるんだし、さっさと結婚すればいいのに」  先に着替え終わった塩崎がロッカールームから出て行った。  さて俺も仕事だと気持ちを切り替えたが、ロッカーに付いている鏡を見たら母親に似た顔の男が映っていて、げんなりした気持ちになった。  確かに学生時代から女にはモテたが、興味がないのだから意味がない。  男にモテたらいいのだが、そちらの界隈でモテるタイプとは違うらしく、相手を探すのはいつも苦労していた。  そういう意味で篤史は都合のいい相手だったが、結局だめになってしまった。  今までだってヤる時はホテルと決めていたし、家に理玖がいることは何も問題がない。  ただ時間が制限されるからますます相手に困りそうだなと思い、小さくため息をついた。 「あー美味しかった。やっぱりハル兄の料理は最高だよ」  今週皿洗い当番になった理玖が食器をてきぱきと片付けてくれるので、俺はリビングでのんびりソファーに座ってテレビを見ることができた。 「そんな風に喜んでくれると使った甲斐があるよ。そうだ、学校の方はどうだ? もう慣れたか?」  俺と一緒に住むことになり、理玖は転校することになった。  徒歩圏で行ける高校を選んで通い出して二週間、暗い顔をしている様子はないが心配になっていた。  俺も母の再婚で転校を経験した。  今までのクラスメイトとはがらりと変わり、冷たくて性格の悪いやつが多かった。  気に入らないと無視されて、孤独な学生生活を送ったので、転校という響き自体でもう嫌な気分になった。 「大丈夫だよ。みんな優しくて親しくしてくれるし」  コーヒーが入ったカップを二つ持ってきて机の上に置いた後、俺の隣に座った理玖は笑顔で答えてくれた。  その様子を見て、俺はホッと胸を撫で下ろした。 「……ただ、ちょっと」 「え……なんだ? 何かあったのか?」  思い詰めたような目をする理玖を見て、俺の心は一気に不安になった。 「夜、あまり寝られないんだ……。色々思い出しちゃって、悪夢も見るし……」 「理玖……、なんで早く言わないんだ! そういうことなら薬が……」 「薬?」 「あ、だめだな。俺に処方されたやつだから、理玖には強すぎる。……時期的なものだが、春になると急に不安になって、睡眠薬をもらっているんだ。もし気になるなら、理玖もカウンセリングを受けれるように手配する」  まさか理玖がそんな辛い思いに苦しんでいたなんて、保護者失格だ。  また放置してしまったと理玖に申し訳なくて悔しくなった。 「カウンセリングはちょっと……知らない人は怖いな。それより……ハル兄に頼みたいことがあるんだけど……」 「なんだ? なんでも言ってくれ。理玖の頼みなら力になりたい」  俺は辛そうな顔をして下を向いてた理玖の手を握って力を込めた。  ゆっくりと顔を上げた理玖は弱々しく微笑んだ。  その顔を見たら、なんでも叶えてあげなければと胸がツキンと痛んだ。 「こんなに狭くて苦しくないか? 俺は寝たら動かないから気にならないけど、寝返りとか……」 「俺も動かないから、大丈夫だよ。それより、ありがとう……。一人で寝てると色々と心細くて」  理玖の無理して笑っているような顔を見て、胸が締め付けられた。  理玖の不安を取り除けるなら、このくらいなんでもない。  理玖は一人で寝るのが恐いと言って、一緒のベッドで寝たいと俺に頼んできた。  不眠で苦しむ気持ちは俺もよく分かっていた。  毎年春になる頃、ちょうどあの家を出て行った季節になると、義父が追いかけてくるのではないかと不安になって眠れなくなるのだ。  十年経ってもその症状は収まることがなくて、最近は薬の世話になることにしていた。  幸い薬がよく効く体質で、飲めば朝までぐっすり眠ることができる。  理玖はまだ薬に頼るのは早いだろうし、誰かと一緒に寝ることで安心するならその方がいい。  それに眠れるようになったら、自分の部屋で寝たいと言ってくるだろうと思っていた。 「ほら、ハル兄来てよ」  先にベッドに入った理玖がスペースを空けて俺を呼んできた。  今まで当然のように理玖の悩みだと思って受け入れてきたが、その光景を見たら心臓がドキリとしてしまった。  気のせいか、やけに理玖が男に見えてしまった。弟だと思っていたし、一回りに近い歳の差があって、俺からしたらまだ子供だと……。  しかし、寝転んだ理玖の筋肉のついた腕や厚い胸板に目が釘付けになってしまい、ゴクリと唾を飲み込んでしまった。 「どうしたの? ハル兄?」 「あ…ああ。じゃあ、そこに……わっっ」  少し距離を空けようとしたら、腕を取られて理玖の胸の中に飛び込むようなかたちになってしまった。 「ごめんね、近かった? 少し寒くて……」 「いや、大丈夫だ……。エアコン付けるか?」 「ううんっ、ハル兄が温かいから、これがちょうどいい」  どくどくと心臓がうるさく鳴り響いておさまらない。この音を理玖に聞かれてしまったら、なんと思われるだろうかと焦ってしまった。 「ハル兄、眠れる薬って部屋にあるの?」 「台所の食器棚に置いてあるが……、あれは強いから、理玖が飲んだらだめだぞ」 「うん、分かった。しばらくこうやってハル兄と寝て様子をみてもいいかな?」 「ああ……、俺の方は問題ない。理玖がリラックスできるように、必要なものがあるなら用意するから……」 「う……ん、……りが……とう」  人肌効果があったのか、理玖の眠そうな声が聞こえてきて、しばらくしたら寝息の声が聞こえてきた。  どうやら上手いこと眠りに入った様子にまずはホッとしたが、後はこのまま寝続けられるか、悪夢を見たりしないか、一緒に寝ながら様子を見る必要があるなと考えていた。  後ろから抱き込まれて、ピッタリと寄り添うように理玖は寝ている。  俺の前にまわされた腕は、力強くしっかりと俺を抱いているので身動きがとれない。  ここまで甘えさせることが正解なのか分からない。一線を引くべきなのかとも頭をよぎったが、理玖の辛そうな顔を見たら胸が締め付けられて嫌だとは言えなかった。  ベッドに寝転んだ理玖を見て、意識してしまった自分が恥ずかしい。  義理ではあるが弟で、まだ子供だと思っていた相手なのに、俺はなんて目で見てしまったのか……。 「はぁ……」  葬儀の日から男と寝ていない。  欲求不満からくるものではないかと考えて、俺はスマホを取ろうとしたがやめた。  さすがに理玖の腕の中で、出会い系を覗くのなんてありえない。  もし眠りが浅くなって見られたりしたら最悪だ。  モヤモヤと考えていたが、理玖の寝息の音が頭の中に子守唄のように響いてきて、俺もウトウトとしていつの間にか眠ってしまった。  こうして毎日、理玖と一緒に眠ることなった。  しかし俺は、新たな問題に悩まされるようになるのだった。  □□□
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