9、告白

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9、告白

 気がついた時は白い天井が見えて、ゆっくり目線を動かしたら、泣いている理玖の顔が見えた。  ずっとスピーカーが壊れたみたいに何も聞こえなかったのに、そこでやっと線がつながってのか周囲の音が聞こえ始めた。  目を開けて顔を動かした俺に気がついた理玖は、椅子を倒して俺の側に駆け寄ってきた。 「ハル兄! 気がついた……、ハル兄、よかった、よかった……」  俺の手を掴んで泣きながら訴えてくる理玖の横から、医師らしき人が出てきて触診を始めた。  ぼんやりその様子を見ながら、何があったか思い出そうとした。  今までのことがぽつぽつと泡のように浮かんできて、パンと弾けて記憶の海に溶けていく。  医師の質問に答えながら、まだ夢の中にいるみたいな気分だった。  店の裏口で堀川に襲われた俺は、気がついたら病院に運ばれてベッドに寝かされていた。  色々と診てもらったが、最終的に医師は心配ないだろうと言った。 「頭の怪我は大したことはありません。縫うほどのものもありませんでした。それより精神的な方ですね。襲われたことへのショックが大きかったんでしょう、しばらく休んでください」 「はい、ありがとうございます」  何とか絞り出した声はカラカラに乾いているように感じた。  医師の話を聞く時も、理玖は俺の手を掴んで離さなかった。時々、震えているのを感じて、こんなことになって申し訳ない気持ちでいっぱいだった。  寝ていたのは一、二時間だったが、すでに深夜を回っていたので、理玖も一緒に病室に泊まることになった。  医師や看護師が出て行って静かになると、理玖はベッドに入ってきて俺をぎゅっと抱きしめてきた。 「怖かった……怖かったよ。親睦会が終わって家に着いた頃、塩崎さんから連絡が来て……、心臓が止まるかと思った」 「理玖、ごめんな……。こんなことになって……。初めから俺がちゃんとしていれば、全部俺のせいだ……」 「そ…そんな、ハル兄は何も悪くないよ。ハル兄が手に入らなかったから、嫌がらせをしてきたのは堀川先生の方でしょう。完全なストーカーだよ。俺の方こそ守れなくてごめん……」  ストーカーと聞いて、何か違和感がした。  堀川はストーカーだったのだろうか。確かに待ち伏せされていたけれど、何かを伝えたいために待っていたと言っていた気がする。 「ハル兄、何も心配しなくていいんだよ。明日警察が話を聞きたいって言ってたけど、俺が横についていてあげるからね」  理玖が俺のおでこにキスを落とした。  すぐに両方の目の上にも。  いつもなら嬉しくてたまらないのに、モヤついた頭が全てを曇らせてしまって反応できなかった。  堀川はなぜ理玖のことを悪く言っていたのか。  ハメられたというのはどういうことなのか、  堀川の被害妄想で俺を思い通りに出来なかったから、理玖を攻撃したかったのか、それとも……  最後に堀川が違うんだという言葉が頭から離れない。  どうしてあの時急に驚いた顔になって、俺を見つめていたのか。  こんなこと理玖に話せるわけもなく、悶々としたまま理玖の腕の中で朝を迎えた。  翌日警察が来て話し合いが行われて、堀川の罪は暴行となっているが、俺は結局被害届を出さないことにした。  怖い思いはしたが、大した怪我ではなかったこと。  何より堀川の家族の存在を考えたら、これ以上複雑なことにしたくなかった。  理玖は甘いと言っていたが、二度と近寄らないことを約束してもらえれば、それで不問にするという話になった。 「本当にそれでいいんですか? こちらは事務所荒らしの件も堀川だとみて調べていますが……」  担当してくれた若い警察官は、俺が首を振ってばかりなので不思議そうな顔をしていた。 「そっちの方は被害が店の方なので、もし証拠が出たら会社に任せます。あの、堀川さんのご家族の方は……大丈夫でしょうか?」  堀川がもし事務所に侵入していたら、俺はそこまで庇いきれない。  それより堀川の家族のことが気になってしまい、聞いてみることにした。 「家族?」 「あの……、奥様とか、そのお子さんも……」 「ああ、今回のことが調停には影響するのは間違いなさそうですね。もう何年も泥沼の離婚裁判で親権を争っているみたいですから」 「え?」  警察官との話が噛み合わなくて俺は眉を寄せた。聞き方がおかしかったかなと考えたが、どう考えても離婚裁判と聞こえた。  向こうも俺の反応がおかしいから、目を合わせて少し間が空いてしまった。 「あれ? 先生の奥さんて、お腹の大きな女性じゃないんですか? 以前街でお見かけしたんですけど……」  変な空気をまとめてくれたのは理玖だった。  その質問で警察官はああと気がついたようにまた話し出した。 「確か、妹さんだったかな。同じように上京してこっちで結婚して暮らしていますね。その女性が今妊娠中と聞きましたが、その方じゃないですかね」 「なるほど、妹さんだったのかぁ、すっかり勘違いしちゃった。ねえ、ハル兄?」 「あ、ああ」  妹。  モールで楽しそうに腕を組んで歩いていた女性は妹だった。  しかし堀川が結婚していたのは確かだ。  事情があると堀川が言っていた言葉を思い出した。  離婚裁判……、親権争い。  何が何だか分からない。  今さらそんなことが分かっても、どうしていいのか。  困惑と混乱がより深まっただけだった。  一カ月経って騒動はやっと落ち着いた。  事務処理で何度か店に出勤したが、塩崎からしばらく休めと勧められて、ちょうど消化しないといけない休みが多く残っていたので、それを利用して長期休みを取った。  やることもなくボケっと家にいるだけだが、静かで平和な時間は、気持ちを落ち着かせるにはちょうど良かった。  堀川は結局、事務所荒らしの件で証拠が出ることはなく、そのまま解放されたそうだ。  学校を辞めて地元に帰ったと聞いた。  もう近付くつもりもないし、連絡先も知らないから関わることはないだろうが、やはりあの最後に残された言葉が気になって時々思い出しては手を止めて考えていた。  堀川はひどく追い込まれたような表情をしていた。あれが、ストーカーの顔なのだろうか。  目には何か訴えてくるようなものがあった。  自分の主張を聞いてほしい、それで誰かを目覚めさせたいというような……  カタンと何か落ちたような音がした。  音の方向を見ると、そこは食器棚だった。  先ほど洗い終わった皿を片付けたので、その時の置き方が悪くて中で何か落ちたのだろうかと思った。  溢れていたら嫌だなと思って扉を開けると、落ちてきたのは白い袋だった。 「あっ……これ……」  すっかり忘れていたが、これは俺が病院でもらった睡眠薬の袋だった。  毎年春先は必要になるのだが、両親の死に理玖との同居、堀川のこと、色々あって飲むことも忘れてそのままだった。  理玖が間違えて飲んだらいけないと思って、手に取ったらあまりの軽さに驚いてしまった。 「えっ、うそ……中身が……」  袋を押した時の手応えのなさに慌てて開けてみると、中は空っぽだった。  しばらくそのまま思考が停止してしまったが、思いついて食器棚の中身を取り出して、どこかにこぼれているのではないかと探した。  しかし、どこにも見つからなかった。  その時、堀川が言った警告、という言葉が頭に浮かんできた。  確かに周りに比べて大人びた理玖。  物分かりが良くて、無欲で。  あんな場所に置いていって、忘れて生きてきた俺のことを何一つ怒ることもなく、笑顔で受け入れてくれた。  思い返せば、何か引っかかることがある。  何かとは言えないが、いつも理玖はなんでも知ってるみたいで……  なくなっている睡眠薬。  理玖が寝ている俺を襲っていた、という堀川の言葉。  ひたひたと冷たいものが体を這っていく感覚がしてぶるりと身を震わせたら、ガチャリとリビングのドアが開けられる音がした。 「ハル兄……」  ゆっくり振り返るとそこには学校から帰ってきた理玖が立っていた。  俺が空の袋を持って立っている姿に気がついた理玖は目を大きく見開いた。 「ああ……ハル兄、それを……見つけてしまったんだね」 「理玖……理玖、もしかして……」 「もう、隠すことはできないね……ごめん、ハル兄……」  顔に手を当てて、理玖は力なく微笑んだ。  どくどくと身体中の血が騒いで、理玖の言葉の続きを待った。 「全部、俺が飲んだんだ」  思っていなかった答えに俺は息を吸い込んだまま吐き出せなくなり、ごくりと呑み込んでしまった。  自分が飲んだ。  理玖は確かにそう言った。 「ハル兄と一緒なら眠れるようになった、なんて言っていたけど本当は悪夢ばかり見て辛くて辛くて……、でもハル兄に心配をかけたくなくて、内緒で薬を飲んで眠ることにしたんだ」 「なっ……なんだって……!?」 「ごめんなさいっ、ダメだって分かっていたけど、思い出してしまうんだ。あの家であったことを……」  理玖は片方の手で自分の腕を強く掴みながら悲痛な顔をしていた。その姿を見て、俺はかつての自分の姿を思い出してしまった。 「理玖……、もしかして……お義父さんに、何かされていたのか?」  目をぎゅっと瞑った理玖は何も言わなかったが、その痛々しい姿から、俺は全てのことを理解した。  なぜ何も考えなかったんだろう。  あんな凶暴な父親の保護の下にいて、理玖が大丈夫であったなんてはずかないんだ。  俺は急いで理玖に近づいて両腕を掴んだ。  下を向いた理玖は涙を堪える顔をしていた。 「理玖、ちゃんと言ってくれ! 俺が受けていたように……、理玖も殴られていたのか? 食事を抜かれたり、ひどい言葉を言われたり……」  理玖は下を向いたままだったが、もっと下に首を傾けてわずかに頷いた。 「な……なんてことだ……、お…俺のせいだ。あんな場所に理玖を置き去りにして……忘れて生きてきてしまった……、俺は知っていたのに、あそこがどんなところか知っていたのに! 理玖を…理玖を……」  早く忘れたくて、自分が生きることに精一杯だった。だけど、通報するくらいできたはずだ。  理玖なら大丈夫だという根拠のない自信、今思えばただ逃げるための言い訳をして、何もしなかった。 「理玖、ごめん……俺はなんて……ダメなヤツなんだ。理玖、どうしたらいい? どうしたらいいか教えてくれ? 病院に行くか? 俺と離れたければ新しく部屋を借りてもいい。金は全部出すから!」 「いや…嫌だよ! ハル兄とずっと一緒がいい! 離れたくなんてない! 病院にも行きたくない……俺は…俺は……」  俺が腕を掴んでいたが、必死な顔になった理玖が今度は手を伸ばして俺の両腕を掴んできた。  なんでもいい、理玖のためなら俺はなんでもするつもりだった。 「ハル兄を愛しているんだ。だから、ずっと恋人として側にいてほしい」 「…………え」  理玖の口から出てきた言葉が信じられなくて、衝撃でまともな返事ができなかった。  それは俺の願望のはずだ。  理玖を好きで諦めようと必死でもがいていた俺が、水をかけられたみたいになった。 「ま……待て、理玖、俺達は兄弟で……」 「義理でしょう。血の繋がりはない」 「だけど! 理玖はまだ若くて、こんな俺のことなんて……」 「関係ない! ハル兄がずっと好きだった! どんなに苦しくても、ハル兄に会えることを夢見て、頑張って生きてきたんだ! 俺はおかしいの? ねえ、ハル兄、ハル兄のことが好きな俺は、おかしいの?」 「理玖……」  理玖の瞳からは大粒の涙がボロボロと流れていた。  理玖があの家で、俺に会うことだけを考えて、必死に生きてきたというのなら、それを俺が否定することなんてできないかった。 「お…かしくなんて、な……い」 「ハル兄……、ならいいの? 俺がハル兄を好きで……ずっと、一緒にいてくれる?」  いいのか。  本当にこれでいいのか。  頭の中に自分の声が響いていた。  これが最後の機会だ。  きっと、ここで理玖を突き放せば、俺達は何も間違うことなく、それぞれの道を歩いていける。  俺は大人として、ダメな兄だったがそれでも責任を持って否定するべきだ。 「うっ……っっ……り……く」  だめだ、と。  その一言が言えない。  自分の思いなんか殺して理玖のために……  理玖のために…… 「ハル兄、俺の幸せはハル兄と一緒にいること、だよ。他の人生なんて考えられない」 「理玖……俺も……俺も、理玖が……好きだ」  気がついたら俺も涙を流していた。  もう、我慢することなんてできずに、思いが破裂するように口から飛び出してしまった。  好きだった。  傷ついた俺に初めて優しくしてくれた理玖。  俺だってあの頃からずっと、理玖のことが好きだった。 「……ハル兄の口からその言葉を聞ける日が来るなんて、嬉しい」  理玖が俺を強く抱きしめた。  俺もそれに応えて理玖の背中に手を回して必死にしがみついた。  理玖の温かさに包まれながら、やはり俺は理玖を手放すことなどできないと思い知った。  考えれば考えるほど、様々な問題が俺と理玖の上に降ってくる。  だけどそれがなんだと言うのだろうか。  俺はもう、理玖のために生きると決めた。  誰かに後ろ指さされたとしてもいい。  正しい選択、間違った選択、それを決めるのは俺と理玖で、きっと何度同じ場面に戻ったとしても俺は理玖を選ぶだろう。  理玖が隣いない人生なんて、そんなもの…… 「ハル兄、好きだよ……。お願い、ハル兄をもっと愛したい」 「……理玖、俺も」  抱き合ったままキスをした。  開け放たれたままの窓から初夏の少し冷たい風と、薄紅色の夕日が部屋の中を流れていった。  妄想では何度もしていたけれど、理玖と初めて交わすキスは熱くて溶けそうで最高に気持ちが良かった。  まだ慣れない理玖がぎこちない動きで舌を絡めてくるのがたまらない。  こういったことも、俺がリードして教えていくのだと思うと、興奮で頭が熱くなってしまった。 「理玖、緊張しないで。俺がゆっくり教えていくから……」 「うん、分かった。……ありがとうハル兄」  理玖はキスだけで真っ赤な顔になり、心臓の鼓動がどくどくと激しく揺れていて、抱き合っている俺にも伝わってきた。  可愛くて愛おしい。  自分の上で理玖はどう花開いてくれるのか。  理玖をじっと見つめると、理玖はふわりと嬉しそうに微笑んだ。  理玖の笑顔はあの頃と変わらない。  純粋で温かくて優しい匂いのする笑顔。  この笑顔を隣でずっと見続けたい。  もう誰にも邪魔させない。  □□□
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