1、再会

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1、再会

 明け方電話が鳴った時、嫌な予感がした。  虫の知らせとでも言うのだろうか。  その音はいつもより心臓に響いて、鳥肌が立ったのを感じた。  電話の相手は叔父で、落ち着いて聞いてくれと言われて、両親が事故で亡くなったと知らされた。  それを聞いても俺は冷静だった。  むしろ電話に出る前の方が焦っていたかもしれない。  分かりましたとだけ、冷たく言葉を返した。  なかなか俺の連絡先が分からなくて遅くなってしまい、病院からはすでに出ていて、葬儀の手配も終わっていると言われた。  本来なら喪主は俺になると言われたが、お願いしますと言って叔父に頼むことになった。  疎遠だったことは叔父も知っていたので、特に何も言われなかった。  電話を切った後、両親の死よりも、これからやることの多さに頭を抱えてため息をついた。  頭の中に、十年前最後に見た両親の姿が浮かんできた。  突然のことだが少しもショックはない。  なんとも思わないのは、自分の中ではとっくに死んでいたんだと気がついて、俺は小さく笑った。  スマホを投げるように置いて、再び布団に入った。  暗闇の中で光っていた画面の明かりが消えたのを見て、俺はゆっくりと目を閉じた。 「おい……、もう行くのかよ」  静かにベッドを出ようとしたら、揺れで起こしてしまったらしい。  腕を掴まれたがその手を軽く撫でて、これから葬式なんだと言ったら驚いたのか手はバッと離れた。 「はあ!? 誰が死んだんだよ? お前葬式の前に男と寝てたのか?」 「大した繋がりじゃない。親戚だ」 「……たってよぉ。相変わらずぶっ飛んでて不謹慎なやつだな」  下着を履いた後、脱ぎ捨てていたシャツをサッと羽織った。  俺が着替えている様子をその男、篤史は寝ぼけた顔で見ていた。 「あのさぁ、春樹。俺、やっぱり結婚することになったわ」 「そうか、じゃあもう会わないな。お幸せに」 「いや、もっとなんかないの? セフレだけど三年も仲良くした仲じゃん」 「仲良くはしていない。お互いホテルでヤルだけの割り切った関係だろう。既婚者は嫌だと最初に言ったはずだ」 「ちめたーい、また連絡するね」 「もう、ブロックしたから」  部屋の中から何か叫んでいる声が聞こえてきたが、俺は構わずドアを閉めた。  ネットで知り合って月に数回、性欲を解消するためだけに会っていた男。  三年会っていたが、お互いの仕事すら知らない関係だ。  なんの未練もない。  また次を探せばいい話だ。  こんな薄っぺらい付き合いをもうずっと続けてきた。  それくらいがちょうどいい。  誰かと深く付き合うことなんてまっぴらだ。  朝日が昇り始めて明るくなってきた空を見た後、俺は駅に向かうために下を向きながら歩き始めた。  故郷に帰るのは十年ぶりだ。  高校時代にバイトで貯めたお金を持って逃げるように都会に出た。  大学の寮に入ったが、生活費も学費も自分で用意した。  両親には一切関わらないでくれと告げて家を出たから、連絡先も教えなかった。  こんなことになったのは、母の結婚した男、全て義父のせいだ。  あの悪魔のような男のおかげで、全てが変わってしまった。  少しだけ、母のことは後悔があるが、あの時の俺にはどうすることもできなかった。  俺の差し出した手は、母に振り払われてしまったのだから……。  都心から電車で二時間。  田舎というには田舎すぎず、高いビルはないがそれなりに緑のある町、俺はここで育った。  十年経つと駅前の景色もそれなりに変わっていた。記憶にある店は変わっていたし、綺麗に建て替えられていた。  駅前のロータリーに見覚えのある車が止まっていた。  造園業をやっている叔父の軽トラックだ。 「春樹、こっちだ。久しぶりだな」  母の二つ違いの弟である叔父は、昔はよく遊んでくれた記憶があるが、やはりその頃よりずっと老けてしまった。  顔に刻まれた皺と真っ白になった頭が何月を感じさせた。 「よく、分かりましたね。俺だって」 「若い頃の姉さんにそっくりだからな。それにやっぱり都会の空気ってやつか? 歩いてきたらすぐにわかったよ」  母に似ているという言葉も、昔は嬉しく感じたが、今は喉が詰まるような苦しい気持ちになった。 「葬儀のこと、色々とすみません」  車に乗り込んで走り出したら、俺はすぐに迷惑をかけたと謝ることにした。 「いや、姉さんの家のこと、俺もほとんど関われなくて、春樹のことも力になってやれなかったからな。これくらいさせてくれ」  運転をしながら叔父はぽつぽつと、俺がいなくなった後の話を聞かせてくれた。  母とはたまに会っていたが元気そうにしていたそうだ。ただ、家族の話になると気まずそうな顔になって口が重くなり、あまり聞かないでくれと言って最後は逃げるように帰っていく、毎回そんな感じだったらしい。 「……春樹のことも、どうしているか心配はしていたよ。電話をすればいいだろうと言ったが、知らないからと返された。あの男のせいで、結局こんなことになっちまったな。だから俺は反対したんだ……」  叔父は悔しそうにハンドルを叩いていた。  今となっては、もうどうしようもないことだ。  もう、全て灰になってしまうのだから。  俺が十五の時に母が再婚した。  本当の父は俺が小さい時に離婚して、それ以来一度も会ったことがない。  平日は祖母の家で暮らして、週末は母の家に行く、という生活をずっと続けてきた。  母が再婚することになり、再婚相手の家で一緒に暮らすことになった。  義父は地元の小さな会社の社長で、大きな家に住んでいた。  前の妻は性格が合わず、出て行ってしまったと聞いた。  母とは夜の店で知り合い、意気投合して付き合い始めてすぐに結婚することになった。  義父は初めは気さくで良い人のように思えた。  よく、話しかけてくれて、外へ遊びに誘ってくれたり、コミュニケーションをとろうとしてくれたと思う。  だがその時俺は思春期で、母とちゃんと暮らしたこともなく、再婚のために中学を転校することになってしまい心が荒れていた。  義父のことが気に入らなくて、いちいち突っかかったり、母に冷たい態度をとってしまった。  そんな俺の態度が、義父の中に眠っていた悪の心を呼び覚ましてしまった。  目つきが気に入らないから始まって、生意気だ、口答えするな、言うことを聞け。  一度殴ったら後は抵抗がなくなったのか、顔を合わせるだけで殴られるようになった。  俺も最初は反発した。  やめろと怒鳴って殴り返すこともあった。  だが、義父は大柄で体格がよくて、鍛えてもいない俺はすぐに捕まって殴られて蹴られて、そんな繰り返しで心はどんどん擦り減っていった。  拍車をかけたのは、俺の部屋にあったゲイ向けの雑誌を見られたことだった。  その頃には自分の指向には気がついていて、興味があるのは同性だった。  自分の部屋に隠していたのに、勝手に入った母が発見して義父の知るところとなった。  軟弱者、頭がおかしいと言われて、俺が矯正させると言って義父の暴力はいっそう激しくなった。  ボコボコに殴られた後、食卓の椅子に縛り付けられた。  義父と母が食事を取る中、何も飲み食いできずトイレにも行かせてもらえず放置された。  その時、もうダメだと思った。  ここにいたら殺されると。  母は殴られることはなかったが、ずっと見て見ぬふりだった。雑誌のこともそうだし、時には俺が文句を言っていると告げ口したこともある。  信じていた母に裏切られて、心は完全に壊れてしまった。  必死で金を貯めて、進学先を都心の大学に決めて逃げる準備をした。  いざ家を出るというとき、俺は母に一緒に逃げようと言った。  だが母は、嫌よ勝手に行ってと言って首を振り、俺の手を振り払った。  それが最後に見た母の姿だった。 「ちょっと、問題があってな」  俺はウトウトして寝そうになっていたが、叔父の声にハッとして息を吸い込んだ。 「遺産のことですか? そっちは……」 「いや、それは会社の弁護士さんが色々とやってくれているから……、あの子のことだ。理玖くんだよ」  その名前を聞いたら、記憶の海の中から小さな白い手が伸びてきて、俺の腕を掴まれたような気持ちになって心臓が一気に冷えた。 「今、高校二年生なんだが、向こうの親戚は誰も引き取りたくないって言うんだよ。まだ未成年だし、一人で暮らすのはなぁ……。うちは年寄りを介護しているから難しいし、困っていて……」  記憶にあるのは、白いパジャマを着て窓辺に立ち、俺のことを泣きそうな目で見てきた寂しそうな姿だった。  母のことが後悔なら、彼のこともまた、俺にとって大きな後悔だった。  葬儀場に着くと、義父の会社関係者や地元の人、たくさんの人が葬儀のために集まっていた。  義父の親戚とは一度も会ったことがないが、やはり母に似た男が登場したことで、一斉に視線を浴びることになった。 「棺の中を見るか?」 「いえ、結構です」 「車に乗っていて交通事故だったんだ。ペダルの後ろに缶が挟まったらしい。それで崖から落ちたから、確かに見ない方がいいかもしれない。とりあえず、中に入ってくれ、あの子もいるから」  そう言われて気分がズドンと重くなった。  ここに来たからには会うことになるだろうと思っていたが、どうにも気まずい。  何と言われるだろうか、出て行けと言われても仕方ないかもしれない。  それくらい理玖のことはいつも俺の中に暗い影をもたらせていた。  理玖は義父の連れ子で、再婚した時はまだ四歳だった。  向こうも母親に似たらしく、義父とは違い柔らかい顔立ちで綺麗な顔をした男の子だった。  母親が恋しい年齢であるから、母にすぐ懐くのかと思っていたが、理玖が懐いたのは俺だった。  俺の行くところどこまでも付いてきて離れようとしなかった。  俺もまた、一人っ子で兄弟が欲しかったので、理玖のことは可愛くて仕方がなかった。  ただ理玖は体が弱くて、繊細な子供だった。  他の子供のように走り回るだけで息切れしてしまい、よく熱を出すので、寝ていることが多かった。  義父は理玖を溺愛していた。  主屋とは別に、敷地内に理玖専用の家を建てて、そこでゆっくり休めるようにとお金をかけて整えた。  俺は学校から帰ったらまず理玖に会いに行ってそこでずっと過ごした。  外に出られず、他の子供とも遊べない理玖が不憫に思えて、俺が代わりに理玖を楽しませてあげようとしていた。  だから、理玖はますます俺に懐いていった。  しかし理玖が成長するにつれて、義父の暴力がだんだんひどくなり、理玖の部屋を訪れる機会は減っていった。  顔や体に増える傷を見ると理玖は心配してくるので、顔を合わせるとマズイと思うようになった。  バイトで忙しかったこともあり、離れに向かうことはほとんどなくなってしまった。  そして理玖が小学生になる年に、俺は逃げるように家を出た。  母に拒絶されて、泣きながら荷物を持って庭を横切っていたら、ガラリと離れの窓が空いた。  そこに立っていたのは理玖だった。  全て悟ったような目で悲しそうな顔で俺を見ていた。  ごめん、理玖。  ごめんな。  そう言って俺は走ってその場から離れた。  小学生の理玖を連れて逃げることなど不可能だった。  それにアイツは理玖を溺愛していたから、理玖に手を出すはずがない。  何度もそう考えて、自分は悪くないんだと繰り返した。  でも、あの悪魔のような義父の元に、理玖を置いて逃げてしまったことは確かだった。  義父の狂気が理玖に向かないとなぜ言えるのか。  俺だけ逃げて俺だけ生き延びて……  義父や母のことを早く忘れたくて、理玖のことを考えないようにして記憶から消してしまった。  俺の後悔であり、罪だった。  理玖は俺を見たらなんと言うだろう。  睨まれて、蔑むようなことを言われるか、存在すら否定されるかもしれない。  親族の待合室に入ると、一人座っている背中が見えた。  当たり前だが、記憶にある子供の姿ではなく、しっかりした男の背中だった。 「……ハル兄?」  音に気がついたのか、座っていた男はスッと立ち上がって俺のことを呼んできた。 「理玖……」  恐かった。  ずっとずっと、この瞬間が恐かった。  あんなに慕っていたのに、なぜ置いて逃げたのか。  あんな悪魔の元に……置き去りにしたのか。  そう言われると身構えて俺は体に力を入れた。  気がつくと理玖は俺の目の前に来ていた。  制服なのか、紺のブレザーに白いシャツ、紺のズボンを履いていた。  昔は折れそうな細さで儚げな少年だったが、今は俺より頭ひとつ背が高くて見上げるようになっていた。  女性的な整った顔立ちをしていたが、その名残りはあるがキリッとした眉は男らしく、精悍な顔つきになって、クラスにいたらモテるだろうなというカッコいい男子になっていた。  何よりあの小さくて細い体が、逞しくてデカくなっていることに驚いて、上から下まで眺めてしまった。 「お……大きく、なったな」 「ハル兄!!」 「うわっっ!」  無言で近づいてきた理玖は、力強い腕で俺のことをガバッと抱きしめてきた。 「ハル兄、会いたかったよ……ずっと、ずっと会いたかった」  何をするのかと慌てたが、まさかそんな風に言ってくれるなんて思っていなくて、一気に体の力が抜けてしまった。  冷たい目で見られて拒絶されると、そう思ってここまで来たのだ。  それがまるで受け入れてくれるような態度が理解できなかった。 「俺を……俺を恨んでないのか?」 「ハル兄を? まさか! 俺はいつか、ハル兄に会える日を夢見て生きてきたんだよ」  ちょっと大げさな言い方をするのが気にはなったが、今は両親が亡くなって混乱しているはずだ。  俺は理玖の背中に手を回して、落ち着かせるように撫でた。 「大丈夫か? 心細かっただろう。後のことは任せて、休んでもいいんだぞ」 「何を言っているの? ハル兄が来てくれたのに、休んでなんかいられないよ。ハル兄こそ、疲れたでしょう。まだ始まる時間じゃないから、座って話そうよ。ハル兄が来てくれたら、話したいことがいっぱいあったんだ」  理玖は記憶にあるあの頃の優しい目をして笑顔を見せてくれた。  変わりすぎた理玖を見て唖然としていたが、その笑顔を見たら昔の気持ちが蘇ってきて俺の胸をついた。  席に座って話し始めたが、やはり心細かったのだろう。  理玖は俺の手を掴んで離さなかった。  学校の話をする理玖の笑顔を見ながら、両親が死んだのにずいぶんと明るい雰囲気に少し違和感を持った。  だが、理玖なりに明るくして考えないように自分を守っているのかもしれないと思ったら、胸はどんどんと苦しくなった。  この後理玖を待ち受けているのは、親戚同士が押し付け合うという胸が痛くなる現実だ。  それを考えたら、もう口にせずにはいられなかった。 「理玖、ちょっといいか? お前さえ良ければ、ウチに……俺と暮らさないか?」  幼さの残る理玖の目が、大きく開いて俺のことを映してきた。  汚れのない純粋な色をした瞳を見ながら、どう返されるだろうかと、胸がトクトクと鳴って全身が緊張に包まれた。  □□□
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