たなばた

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 ぬったりとした汗をふく。私くらいの年になると、にじみでた汗も、枯れた肌に吸い込まれていくだけだ。  私は砂浜に腰をおろし、海水浴にやってきた人たちが、波間をくぐり抜けるように泳ぐさまを、ただぼんやりとみつめていた。 「七夕の再会か……」  過ぎ去った過去が青い空に映しだされる。 若かった頃の私は、ミュ―ジシャンになろうと本気で考えていた。ファ―ストフ―ドの仕事をしながら、ギタ―をかき鳴らし、オリジナルの歌も作り続けていた。その店にやってきた章子に一目ぼれした私は、章子のためだけの歌をつくり、そして歌った。 「あなたの夢はきっと叶うわ」  彼女にはなんど元気づけられ、心を救われたかわからない。  しかし、章子の家では招かれざる客。ミュ―ジシャンなどめざす男など、軟弱者としかみられず、ふたりが遠ざけられるのに、そう時間はかからなかった。  別れ際、お互い束縛されない日々を迎えたら、七夕の日に、二人でよく来たこの浜で再会しようと、センチメンタルな約束をした。もちろんそのときは本気ではなかった。別れがたく切ない自分の想いを、慰めるつもりで口にした言葉だった。  時は過ぎ、工場を定年退職したあと、身のまわりを整理しているときにみつけた章子の手紙に、遠い過去の記憶が呼び起こされた。 「おじいちゃん、なにをしているの?」  私の追想は、女の子の声でかき消された。突然声をかけられて、とまどいながらもふりむくと、緑色の服を着た、五歳くらいの女の子が立っている。どことなく章子の面立ちを思わせた。 「この近くに住んでいるの?」 「ちがうよ。おばあちゃんが七夕の日に、この海にどうしても行かなくちゃって言うから、私もついてきたんだよ」  女の子の言葉に、もしや? という思いが私の胸をよぎった。    日差しをさける私の手のむこうから、日傘をさした老女がゆっくりと歩いてくるのがみえた。年老いてはいるが章子にまちがいない。彼女の視線は私に注がれている。  日ざしの関係なのか、ときおり彼女の姿が、蜃気楼のようにゆらいでみえる。  目の前にきた彼女の姿が、私の目にようやく鮮明にみとめられた。 「章子だね?」 「そうですよ、お久しぶりね」  さわやかに微笑む、清楚な姿は昔とかわらない。 「本当に久しぶりだね。章子の孫娘かい?」 「そうですよ。かわいいでしょう?」  カモメを追いかけている孫娘にむけているまなざしが、とてもやさしい。 「夢は叶わなかったよ」 「そう、よかった……。あら、ごめんなさい。でもわかってね。あなたが 有名になったらなにか寂しいような気もしていたの」 「もういいんだ。すべては過ぎ去ったことだよ。今にして思うと、章子の想いをしっかりとうけとめていなかったなと、悔やむこともあるよ」  章子はなにも答えず、ただ微笑んでいる。話したいことは、無尽蔵にとりだせるという、打ち出の小槌のようにあったはずだが、なんど心を振ってもなにひとつ言葉がでてこない。  ただ、章子のそばにいるだけで、少年の頃のように、胸が熱くなってくるのだ。  そのまま、どのくらい時がすぎたのだろう。一瞬であったのか、小一時間も過ぎたのか、いつのまにやら黒い雲が空をおおっていて、ポツリポツリと雨まで降りだしてきた。 「あらあら、雨だわ。もう、帰らなくては」 「もっと話がしたいな」 「雨が降ったら、彦星と織姫の逢瀬はお流れになるものよ」  雨に濡れるたび、青いワンピ―スを上品に着こなした章子の笑顔が、華奢で優美な肩が、そして丸みをおびたウェストと細い足首が、塩が水に溶けるように、さらさらと消えていった。  そして章子のいた場所には似てはいるが別人の老女。 「失礼ですが、義雄さんですよね。私、章子の姉の良子です。若い頃に一度、実家でお会いしましたわよね」 「そんな……私は章子さんと話をしていたはずなのです」 「義雄さんの独り言は聞こえていましたわ。残念ですが、章子は昨年亡くなっています。  その章子が生前、七夕の日がきたら、この浜辺に行きたいと、なんども言っていたものですから……」     (了)
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