4人が本棚に入れています
本棚に追加
夜のまた夜、真の夜。
陽の気配が消え失せて久しく、そして次の明けまでも遠い深淵の刻。
あらゆる悪、謀略と姦淫と暴力と、おおよそ人目を憚るものどもの跋扈するひとときばかりの世界。
なればこの刻に訪れる者などは、到底真っ当な連中ではあるまい。
彼らは中流街では程よく裕福な商店へ忍び込むと、商人一家と使用人を縛り上げた。ほとんど騒がせることもなく灯りも無しに瞬く間。
商店の周辺住民が誰ひとり気付かない流れるような手際だ。
賊どもは彼らを一所に集めるような真似はせず、むしろバラバラに各自の部屋に置き去りにすると店の倉庫と金庫へ手分けして走った。
商店の人間を傷つけるつもりは毛頭なく、彼らが自力で縛を解いて騒いだりひとを呼んだりしてもそれまでにおさらばしてしまえばいい。金目の物さえいただけば用はないのだ。
だがしかし。顔を見られるのは拙い。
だからたまたま運よく縄を解いた商人の娘が愚かにも灯りをつけて廊下に出てしまったとき、彼女は賊にとって“用はない”存在ではなくなってしまった。
賊のひとりがとっさに彼女の腕を掴んで灯りを奪い取る。
「ひっ! は、放し! むぐっ」
声をあげようとした娘の口を塞ぎ、他の賊が灯りを消した。
「いいかお嬢ちゃん、明日の朝パパやママと抱き合いたかったら静かにしてるんだ」
娘はドスの効いた男の声に震え上がって口を閉ざすと首がもげそうなほど無言で頷いた。
「いい子だ……」
賊は努めて優しく囁いたものの、実際途方に暮れていた。相方は黙っているが、顔を見られた以上この娘は殺すか連れ去ってどこか遠くへ売り払うしかない。
だが賊にも決まりごとというものがある。放火や殺しは拙い。
盗みと強盗では罪の重さが圧倒的に違うのだ。放火は特に罪が重く捕まれば死罪は免れない。仮にその場を逃げおおせようとも職業騎士はその沽券に賭けて本気で犯人を狩り出すだろう。
盗みを生業とするならその辺りには細心の注意を払わなくてはいけない。所帯が大きくなれば尚更だ。
どうする……?
突然、窓が外側から割れて黒いなにかが飛び込んで来た。
まるで闇を固めた漆黒の塊。
それは暴風のように相方を壁に叩き付けてそのまま廊下の闇へ消える。
なんだ? なにが起こった!?
娘を小脇に抱えて口を塞いだまま闇に目を凝らすが、既に誰もこの場にはいない。
少し離れたところから「うわ、なんだ!?」「ぐわっ!」など仲間の悲鳴が聞こえてきた。金庫や商品を押さえに行った連中が襲われているのだ。
しかしそれもすぐに収まる。
不安になって腰のものに手を伸ばすが、無い。
「な……」
使うことは無いだろうと思いつつも有事の備えとして持ってきた小剣が無いのだ。残された鞘だけがベルトからぶら下がっている。
落とすようなものじゃないし、落とせばさすがに気付くだろう。どこだ? どこへやった?
あんな得体のしれないものと丸腰で対峙するなんて冗談じゃない。焦りながら廊下を見回していると、奥の闇から声が響いてきた。
「ははは、探し物はこれかい?」
陽気な男の声。若くはなさそうだ。
ほんの数歩のところに賊の小剣が転がった。手を伸ばしても届く距離じゃないが、娘から手を離せばすぐに取れる程度の絶妙な距離。
「まさかあの一瞬で抜き取ったってのか」
賊が震えを押し殺して問う。
「君は僕が飛び込んだとき顔を庇ってたよねえ。がら空きだったから通りすがりにちょっと拝借したってわけ。自分の剣使っちゃうと後で手入れしなきゃいけなくなるしね!」
目が慣れてうっすら相手の輪郭が見えてくる。
黒塗りの軽鎧と黒いマント。剣の収まった鞘も手にしている盾までも黒く塗られている。目元まで覆う黒い半兜の隙間からは唯一輝くような青い双眸が覗いていた。
「酔狂な格好しやがって、何者だ」
その問いに黒ずくめの口元がにやりと歪む。
「ふっ……僕の名は、そう、ひと呼んで“真夜中の騎士”!」
暗闇に間があった。
「ふざけてんのか……?」
呆気にとられたような腹を立てたような、どちらとも言い難い声色だ。
「いやいやこう見えて大まじめだよ。それより、素直にその子を放すなら剣を拾う暇をあげるけどどうする? ただし放さずに一歩でも動いたら、僕は君を一方的にブチのめす」
確かに武器のひとつも無いでは娘を人質にしても迫力に欠けるが、それを差し引いてもなんという傍若無人な提案だろう。
賊は迷った。
娘を手放せばなにもかもが台無しだ。とはいえもはや人質にもならない娘を抱えたまま逃げ果せるなどとてもできそうにない。剣を手にすれば目の前の黒ずくめに勝てる可能性はあるだろうか? そもそも勝てたところで仲間はみんな倒されてしまっているのにどうするつもりなんだ? 娘は自由になったらすぐに騒いでひとを呼ぶだろう。どのみちもうこの盗みは失敗だ。
そして逮捕者が出れば何年もかけて下準備を進めている他の計画も全部だめになる。
これは詰んでいると言わざるを得ない。
みしり。
賊の足元で床板が軋む音がした。恐る恐る視線を降ろすと、その足は無意識に一歩下がっていた。
視線を切ったのは一瞬。しかしその刹那で風のように踏み込んできた黒ずくめの鉄拳を顔面に受けて、賊はそのまま意識を失った。
「はーい、残念でした!」
最初のコメントを投稿しよう!