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「侑斗を呼んで来い」
それは最悪な命令でもあり、僕にとって一番のお仕置きでもあった。
僕が動けずにいると、父は僕の頬を殴る。まだ小さな体は横に飛び、頬は驚くほどに痛みと熱を発していた。
「早くしろっ」
父が怒鳴る。それでも僕は動かなかった。僕が呼びに行けば、大好きな兄が殴られるからだ。
僕の失態は兄の責任。兄がきちんと僕を見ていないから悪いと父は言う。
僕のせいで兄が殴られ、折檻される。それなのに兄は優しかった。悪いのは父であって、拓真のせいじゃないと言ってくれる。
だけど、あの頃は僕が悪いと思っていた。僕がいるせいで、兄が辛い思いをしてしまう。
僕さえいなければ、兄は救われる。そう信じていたから、僕は中学卒業と同時に家を出た。
それが間違いであると気づいたのは、父が兄に殺されたと聞いた時だった。
嫌な夢を見た。
兄が父に殴られる夢。目を覚ました時、僕は泣いていた。
外からは雨音が聞こえ、カーテンから差す光は灰色がかっている。
僕は涙を袖で拭うと、顔を洗う為にキッチンへと向かう。狭いワンルームだから、寝床からキッチンまでの距離は近かった。
洗面を済ませると、冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注ぐ。キッチンに寄りかかりながら、食パンを齧り、牛乳で流し込んだ。
変わらないルーティン。殺風景なワンルームを眺めながら、僕は黙々と食事を取る。
立ちながら食事だなんて、家族と住んでいた頃はあり得ないことだった。
でも今は違う。ここでは誰も僕を責めもしなければ、殴りもしない。
それなのに、僕はまるで何かを失ったような深い喪失感を感じていた。
自由になれたとは思わない。この十年間、僕の中の蟠りは減るどころか、増す一方だったからだ。
食事を終えて、服を着替えると、僕は家を出た。
電車に乗って、数駅先にある繁華街にほど近い駅で降りると、勤め先であるバーへと向かう。
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