6 恋の矢 (琉弥side 1)

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6 恋の矢 (琉弥side 1)

その日、徳永 琉弥は浮かれていた。 例えそうは見えなくても内心は飛び跳ねたいくらい浮かれていた。 何故なら。 ついさっき、実家に帰ってしまっていた最愛の番が、一週間振りに帰ってくるとの連絡がスマホに入ったからだ。 早く会いたいし、抱きしめたい。 自然、打鍵の速度も上がる。 帰ってくるのは明日だけれど、ソワソワしてしまうのは仕方なかった。 だって琉弥は番の嫁である八尋にベタ惚れだからだ。 その八尋が、番になり結婚し、一緒に暮らし始めて初めて、一週間もの里帰りを希望した。 体の具合いでも悪いのか、何か理由があるのかと心配したが、八尋は笑いながら、 『じいちゃんの墓参りに行くついでにゆっくりしてこようと思ってるだけだよ。』 と言ったので安心した。 寂しいが、八尋の自由を奪うような事をして嫌われたくはなかったから、いい格好をして送り出した。 結果、やっぱり寂しい思いをしたが、帰ってくると連絡があってからはそれが全部吹き飛んでしまった。 明日は八尋が好きなビーフシチューでも作って待っていてやろうかな、と考えていた時、ノック音と共に涼やかな甘いテノールが聞こえた。 「失礼します。」 入ってきたのは琉弥に付いている部下の佐々木だ。 βながらかなり優秀。 琉弥は僅かに唇の端を上げた。 「…どうした。」 佐々木は丁寧な所作でドアを閉めると、琉弥に向き直り微笑んだ。 「仕事の連絡じゃないんですが…。 部長、今夜も同じ時間でよろしいですか?」 「…ああ、そうだな。」 「では、そのように」 明日帰って来る八尋の事が一瞬脳裏を掠めたが、肯定の返事をした。 琉弥と佐々木は所謂、不倫関係というものだった。 八尋をこよなく愛していながら何故そんな事になったのかと言えば、琉弥の方にもそれなりの事情はあるのだが、それが一般的に理解されるかは難しいところだ。 琉弥はとにかく、佐々木の気を自分に引き付け続けなければならなかった。 琉弥と八尋が出会ったのは、もう15年も前の事だ。 琉弥は早くからαというバース性が確定していたが、親の方針で、中学迄は地域の市立中学に通っていた。 αの子を持つ親は、早くから私立の、俗にα校と呼ばれるような有名エスカレーター校 に行かせる事も多い中、徳永家では代々中学迄は普通の教育環境を与えるのが家風になっている。 あまり世間知らずにならないようにという事と、将来の伴侶は何処でどんな縁に結ばれるかわからないという至極安易な理由らしい。 確かに幼稚園からαばかりの中に入ってしまうと、将来は恋愛を知らずにマッチング婚や見合い婚になってしまった事例もよく聞くから、それは少しつまらない人生にはなりそうだと琉弥も思ったものだが。 ともあれ、それで琉弥は進学した中学の、同じクラスにいて隣の席になった八尋に一目惚れしてしまった。 最初、琉弥は戸惑った。 何故コイツなのだ、と。 何故ならその時、琉弥は八尋をβだと思っていたからだ。 通常、バース性というあまりにセンシティブな問題は、他人に秘匿されがちなものだ。 早くに確定する者もいれば、15歳くらい迄は7割くらいでそうかな?と曖昧な者もいて、ごく稀に、18歳前後迄それが引き伸ばされる者もいる。 だが八尋は外見的特徴からはβである率が高いと思われたし、発情前故に匂いの発散も無かった。 つまり本当にごく普通の、平凡な男子生徒に過ぎなかったのだ。 だから琉弥は自分が八尋に恋をした事を認められなかった。 仮にもαである自分が、Ωでもない、βの、しかも取り立てて容姿が良い訳でもないつまらないβ男子なんか好きになる筈が無い。 早くからαとして自覚しながら生きてきたプライドが、未だ幼い初恋の邪魔をした。 琉弥は意識的に八尋と距離を取るようになり、同じクラスだというのに一年間、たまの挨拶以外、殆ど話した事が無かった。 二年になり、クラスは別れ、必然的に八尋の姿を目にする事は少なくなった。 時折、思いがけず姿を見かければ胸が躍ったが、未だその時には こんなつまらない感情はじきに忘れていくものだと考えていた。 三年でもクラスは違った。 八尋の姿を探してしまう癖がついている事に、自分でも気づいていた。 それでも、その時には琉弥は全寮制の進学校に進む事がほぼ決まっていた。 物理的距離が出来れば離れられるーー。 そう、楽観的に考えていた。 結果としては、琉弥は八尋を忘れる事は出来ずに高校、大学を過ごす事になった。 そして、伯父の会社に入社して二年。 決まった恋人も番も持たず、レールの敷かれた人生を日々消化するだけだった琉弥に、ある日転機が訪れた。 伯父の部下に付いて行った先の会社で、ある男を見たのだ。 八尋だった。 身長も伸び成長して、少年ぽさを残しつつも体はきちんと大人の男になってはいたけれど、確かに八尋だった。だって面影があるどころの話ではなく、八尋はあまり顔が変わっていなかった。 童顔にも程がある、と琉弥は思った。 八尋は一生懸命コピー機と格闘していたようだったが、じきに業者が来て、あからさまにホッとした顔をしていた。 そして、業者の男と何か話しながら、笑った。 琉弥の胸は再び恋の弓矢に射抜かれた。 普通の子の、不意の笑顔に惚れてしまうというテンプレを地でいってしまう琉弥。でも人が人に心を奪われる瞬間なんて、得てしてそんなものである。
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