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憂鬱な卒業式
生暖かく湿った風が校庭の砂を巻き上げ、鈍色の雲が形を目まぐるしく変えながら吹き飛ばされていく。時折射す太陽の光の刺激に耐え兼ねて紬はぎゅっと明るい茶色の瞳を眇めた。
朝から予感はしていたが大事な式の最中に、いよいよ頭を両側からぎゅっと手で押さえつけられるような鈍い痛みに悩まされた。よせばいいのに校庭にでてうっかり白っぽい空を見てしまったら、それが刺激となってずきんっとかなり強く刺すような痛みが増してしまった。
(あったま、痛っ……)
予報通り、午後には雨が降り出すかもしれない。紬の母も天気によって片頭痛が出るため『卒業式なのに最悪だわ』と今朝久しぶりに美しく化粧を施した顔を歪めて忌々し気に呟いていた。
そんな母は式が終わるとすぐさま『第〇回卒業式』と書かれた看板の前に紬を引っ張っていき、母子して多少痛みに引きつった笑いを浮かべて何とか一枚だけ写真におさまった。そして自分は先にさっさと家に帰っていったのだ。
他の保護者達が互いに思い出話に花を咲かせ、式典後の華やいだ雰囲気を味わっているのに、やけにあっさりしたものだが、頭痛が相当辛かったのだろう。慣れないパンプスを脱ぎ捨てたらさっさと布団に入る気かもしれない。
紬がもっと小さな頃であったのならば母のそんなマイペースな行動を寂しく思ったのかもしれないが、受験期のストレスが契機になり紬も同じように頻繁に頭痛に見舞われるようになったのですごく気持ちが分かるようになり同病たる母を憐れんだ。
式の後、幼馴染の陽仁とそれぞれの部活の顧問や担任の先生のところに挨拶に周り、そのたび『お前たち卒業してもまた高校一緒か?』と揶揄われた後、一度離れてそれぞれのクラスメイトのグループにも顔を出した。
この独特な湿っぽい空気が苦手だ。紬はいつまでも取り留めのない話をしている人の輪から切りのいいところで抜けて門の方へと歩き出す。
一番仲の良い幼馴染と進学先が一緒の為、離れ離れになって哀しい友人が他にいない紬にとって、チャレンジして入れた進学校の勉強についていけるかだけが心配の種だ。それすら出来の良い幼馴染と一緒なら乗り越えていける気がしていた。
(それにしても。持ち帰るの卒業証書とアルバムだけかと思ったら切り花じゃなくて、なんで鉢植え……。ビニールの持ち手、指に食い込むし、地味に重たい)
PTAからのプレゼントだという名前も知らぬ花の鉢植えは、しっかりお世話をしてもらっていたのか水を吸ってズシリと重い。卒業生の数だけ校舎から体育館へ続く文字通りの花道を作るために置かれていて、その後プレゼントとして卒業生に渡された。
赤や黄色、白に紫の斑入り、そして青、ピンクと色とりどりの花が白いビニール袋から咲き零れている。『生徒それぞれの輝く個性のように多彩な花々』なんてPTA会長が祝辞の中で話していたが、女子は花一つ選ぶのでもあれがいいこれがいいと大騒ぎしてとても嬉しそうで、男子はなんとなく無難な青や黄色を選んでいる者が多かった。しかしその後はみな一様に持ち歩くには若干邪魔そうにしている。紬は最後に余った蕾の目立つ赤い花の鉢の袋を手に提げていた。
紬は陽仁との合流場所に選んだ、昔の卒業生が制作したという各学年カラーを表す五輪もどきのオブジェの台座に寄り掛かった。
(早く帰りたい。帰ったらとにかく一回寝たい……)
ぼんやりして頭の痛みをやり過ごしたかったが、そのオブジェが門の横っちょにあるため、見知った顔が紬に声をかけてひらひら手を振ってくれたり頻繁に話しかけてくる。
式典中我慢し続けた頭の痛みが時折強まって集中できず上の空で適当な返事を返し、愛想笑いで応じてしまう。そのあいまいな態度がいけなかったのか、クラスの中では一番仲が良い皆のムードメーカーの木戸が夕方からクラスでファミレスに行くのを熱心に誘ってくれるのを断るタイミングを逃してしまった
「……だから、俺は3時半には着替えて中町公園行くけど、ツムも来いよ。手塚とかさ、早めに来てくれる女子も何人かいるし、ツムが来るって言っちゃったしさ? 」
「あ……。公園行ってから5時頃からご飯食べにいって7時までには解散なんだろ? 時間早くないか?」
(それはその頃には頭痛治まってるだろうって思ったからさ)
朝、軽く誘われた時よりずっと早い時間に公園に行くことを指定されて、歯切れの悪い答えをしたら、木戸がいつものようにグイグイと押し通してくる。我が強い木戸の大抵の我儘を紬が飲んでいるうちにすっかり図々しくなってしまった。1年2年と一番の幼馴染の陽仁とクラスが分かれてしまったから、3年になってから仲の良い友人作りに苦心していた紬に、声をかけてくれた恩があるし、根は気のいい奴なので邪険にも扱えない。しかし木戸には陽仁ほどの本音が漏らせず盛り下がりそうで頭痛のことを言い出しにくかった。
「公園に咲いてるとこあるらしいから、みんなで写真とってから、すぐファミレス早く行かないと、今日なんて他のクラスの奴らもみんないくだろうから、席埋まっちゃうだろ? 早く行って他の奴らの分も席とらないと」
「そうだけど……」
(公園いったってファミレスいったって、どうせみんなひとしきり写真上げて盛り上がったら、後はみんな勝手にスマホ弄ってるんだろう。それより今日は早く家でゆっくりしたい)
「手塚さん、ツムがいないとさ、寂しいだろ? 第二ボタン渡したんだろ?な?」
「ボタン? ああ女子が何人かで来て、欲しいっていうからあげたけど……」
先ほど女子に囲まれて千切られたボタンの行き先はどうやら手塚さんだったらしいと紬は今知った。手塚さんとは共に学級委員をして一緒にいることも多い時期もあり、ちょっとした噂をたてられたが、受験で皆それどころではなくなると立ち消えていた。今更蒸し返されても面倒だと思っていたが、にやにやとした木戸の顔を見るとなにかクラスの女子からそういうお膳立てを頼まれているのかもしれない。
(頭痛いときにそういうの……。勘弁してくれ)
クラス一明るくてお調子者の木戸とは普段なら一緒にいて楽しいと思えるが、今日のように体調が優れない時には彼の変声期後とは思えないような高めの声も早い喋り方も正直少し苦痛だ。しかしこんなこと本人に面と向かって言えるはずもなく、頭が痛くて騒がしいところに行きたくないなんて、ノリの悪いことも言えず迷っていた。即答しない紬に焦れたように木戸が口をとがらせてなおも大声を出そうとしたから、痛みの予感に反射的に紬がぎゅっと身体に力をいれると、後ろから聞き覚えのある声がかかる。
「紬ごめん、待たせた」
大体いつもの彼の立ち位置である紬の左側に背の高い陽仁がすっと並ぶ。陽仁が紬と共に二対一で木戸の前に立っている雰囲気になった。
あれほど紬にがんがん来ていた木戸も大人しくなったので紬はほっとした。騒がしくはないのにきちんとした存在感のある陽仁には木戸も一目置いているようなのだ。
「もう帰れる?」
「まだちょっと木戸と話してる」
「分かった」
声まで男前な陽仁のそれはすぐ傍でしゃべられても低く滑らかで耳触りがいい。抑揚も同学年の男子と比べて落ち着いていて、流石年の離れた妹の面倒をよく見るお兄ちゃんといった感じだ。
陽仁の声。聞いただけで強張っていた身体から余計な力が抜ける心地だ。今みたいな体調が悪い時、隣にいるだけでも大分ほっとするから幼馴染とは不思議なものだ。
多少頬を緩めて紬は陽仁の方を何気なくみてぎょっとする。ほんの先ほどまで確かにあったはずの学ランのボタンが綺麗さっぱり、糸だけ残してなくなっていたのだ。
「陽仁? お前上着……」
「あ、ああ、これ。欲しいって言われて……」
「だからって全部取られるか? 普通。前締まってないじゃん」
白シャツが完全に見えた状態の陽仁はちょっと恥ずかしそうな顔をして目を伏せた。校庭でそれぞれのクラスに分かれていた時にこうなったのだろう。陽仁に彼女はいないはずだから今回もしかしたら女子に次々に告白されて、こんな有様になったのかもしれない。
(誰にあげたんだろ……。一つじゃなくてこれだけないってことは何人もにねだられた? それとも一人の子が持っていったのか? もしくは付き合ってた子がいたのかな? 俺に黙って彼女作ってた??)
「紬のも、一つない。第二ボタン……」
少し沈んだ声色で指摘されたが、一つぐらいなんだと思う。意味深と言われている第二ボタンだが、特に好きな女子がいるわけではない紬は、まあ別に欲しいのならあげればいいかと深く考えずに渡してしまった。頭が痛くてそれこそおざなりな対応をしてしまった結果だし、だからあまり意味なんてない。
それよりも保育園時代から陽仁のことで知らないことはないと自負している紬は、もやもやといろいろな感情が胸に渦巻き、頭痛も相まって唇を引き絞る。後で絶対に問い詰めようと思ったが、今は頭が痛くてそんな元気もない。
「君島、お前そのボタン! 誰にあげたんだよ?」
曖昧に笑って木戸の質問にも答えない陽仁は、それほど長身ではない木戸をぬっと見おろすような形になる。人によっては陽仁の大きさを威圧的に感じる様でそれ以上しつこくしてこなかった。
陽仁は笑えば懐っこい大型犬みたいな感じでその暖かな笑顔が紬は大好きだ。普段から高い位置にあるものを率先して取ったり、重い荷物を持ってあげたり、配布物をさりげなく手伝ったりする優しさも手伝って、女子からも人気も密かに高いのが納得なのだ。
(あーあ。陽仁ついに彼女持ちになったのかな……。折角受験が終わって春休み一緒に沢山遊ぼうと思ってたのに、もう前みたいに毎日つるめないのかも)
そう考えるとツキンとこめかみだけでなく、胸の奥まで何故だか痛む。木戸がまた色々喋りかけてきたがぼんやりしていたが、ついに痺れを切らしたのか、大声で確認をされて頭を上から殴られたように痛みが走った。
「……おい、ツム、来るよな?」
「……えっ、ああ」
なおも紬には威圧的でしつこく誘ってきた木戸に即答しかねると、日頃は控えめな陽仁がすっと少しだけ前にでて、代わりに答えて始めたから驚いた。
「木戸君、ごめん。俺たち夕方、学童に俺の妹を迎えにいかないといけないんだ。だから紬は行けたとしても合流はすごく遅くなると思う」
(そんな約束してたっけ? 確かに週末は母さんたちと俺たちで卒業祝いに回転ずし食べ放題行くって言ってたけど……)
陽仁の母も式典後すぐに仕事にいってしまったから、確かに今日も妹の彩夏ちゃんの学童のお迎えを陽仁が頼まれているのかもしれない。今までも何度か一緒に行ったことはあるが、今日一緒に行くとは寝耳に水だ。
「えー。ツムそんなこと言ってたっけ?」
木戸はなんでお前の妹のお迎えに紬もいかないといけないんだという不満をありありと顔に載せている。しかし正直今も頭がずきずき痛すぎて苦しいので、陽仁の話にありがたく乗ることにした。
「……ごめん。忘れてた。そうだった」
「妹は小さなころから紬に懐いてて、今日三人で卒業祝いのケーキ買いに行くって約束してたんだ」
陸上部でもずば抜けて目立つ長身な上、物腰は優し気なイケメンの陽仁に丁寧に頼まれて、木戸も流石にそれ以上誘わなくなった。
「わかったよ! じゃあこれたらこいよ!」
「わかった。じゃあな」
やっと木戸から解放されてほっとし、紬はいつものように肩越しに陽仁を見上げて促した。
「俺らも帰るか?」
「うん。帰ろう」
そろそろ時計が昼を回り大分お腹も空いてきた。経験上、空腹が治れば頭痛も少し収まるかもしれない。帰宅する人の流れに乗るように2人も歩き始めた。
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