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第一章 死にたがって家を出てみたけど…… 2
「え……クマさん? なんで? クマ? くま? 熊?」
私の目の前で気持ち良さそうにイビキをかいているのは、紛れもなくクマさんだ。しかも大きい。ベンチに全体重を預けて、両足を宙に放り投げた状態で寝ているクマさんは、ぱっと見でも体長二メートルはありそうで、結構太っている(クマってこんなもんかな?)そして毛並みが偽物臭い。
「なんでタオル地なのかな? このクマさん……」
目の前にクマがいるというのに、全く怖いという感情は湧いてこず、むしろ触りたいという欲求の方が強くなっていた。しかしいくら触りたくとも、いきなり寝込みを襲うのは失礼だと思うので、起きるまで待ってみることにする。
どうせ私の帰りなんて誰も待ってないんだ。そもそも死ぬつもりなのだから、死に際の時間くらい自由に使って良いはずだよね?
「うーん。なんというか……見覚えがあるような無いような?」
あれだね。テーマパークにいる着ぐるみっぽい感じがするから見覚えがあるんだきっと。そうに決まってる。私の知り合いに、タオル地の二メートルで、イビキをかくクマなんていないもの。
私はそっとクマさんの寝ているベンチの後ろ側に回り込み、ベンチを構成している木の隙間からクマさんの背中を観察する。
「何もない!?」
私はついつい驚きの声をあげる。背中にファスナーが存在していて、何処かのテーマパークのマスコットの着ぐるみでしたってオチを期待してたのだが、どうやら違うらしい。
どうしよう……ファスナーが無いってことは、中の人なんてのもいないわけで……ということは、このイビキもタオル地の毛並みも本物というわけで……。じゃあもしかして本当にクマなの?
「ひっ!?」
私が脳内であーだこーだ考えている時、寝ているクマさんが急にぴくっと動いた。
その瞬間に察した。
私……殺される! 嫌だ嫌だ! 私は自殺がしたいのであって、クマさんに食い殺されるのは望んでない! どうにかしないと……なんだっけ、クマと出会ったらこうしたほうが良いって、前に何かの番組で言ってたような……。
「そうだ! 寝たふりだ! クマさんは寝てる! だから私も寝る!」
パニックになった私は脳内でそう結論付けると、その謎理論を信じてよりにもよってベンチの目の前で横になる。仰向けになって、降り注ぐ日光を浴びながら目を瞑る。背中に感じる土の温度がひんやりとしていて気持ちが良い。
私はここまで死に場所を求めて歩きまくっていたのもあって、全身クタクタだった。それに加えて程よく暖かい春の陽光を浴び、体の下では、土と原っぱのベッドが全身をひんやりと包み込む。さらに街中では中々味わえない土の香りが安心感を演出し、私は寝たふりではなく本当に寝てしまった。
「文香ちゃん起きて。弱ったな~どうしよう?」
私の隣で声が聞こえる。聞いていると安心する声。一体誰だろう? ここには野生の怪しいクマさんがいるのだから、とっとと帰った方がいい。危ないから。そうクマさん……うん? 私の隣にクマさんが眠っている? じゃあ隣から聞こえるこの声は?
「キャー!!」
私は急におそろしくなり飛び起きた。
「うお!」
私が急に飛び起きたせいか、声の主は心底驚いた声を発した。それにしても良く通るバリトンボイス。
私は恐る恐る声のした方を見る。見間違いではない。やっぱりクマさんがいる。ベンチに座って足を組んでいる。クマさんが足を組む? いやいやあり得ない。そんなクマいないよね。
「本当にクマ?」
私は意を決して話しかけた。なんとなくベンチに座って足を組んでいる姿から、食べられることはなさそうだと思ったからだ。
「文香ちゃんからはどう見える?」
クマさんは質問に質問で返してきた。それに私の名前を呼んできた。私名乗ったっけ?
「私からはクマに見えます、タオル地の。というよりどうして私の名前を知ってるんですか?」
私は突然呼ばれた名前に困惑する。しかも名字の切株ではなく、名前の文香の方。中学校のクラスメイト達も、私のことは名字で呼ぶ。下の名前で呼ばれることもなければ、ニックネームもない。私には友達がいないから。だから私を文香と呼ぶのは親ぐらいのはずだった。もう二度と呼ばれることはない名だと思っていたんだけどな……。
「そっか~文香は憶えてないんだね」
急に呼び捨てにされて若干微妙な気分だが、今はそんなことはどうでもいい。それよりも私が憶えていないこと? なんだろう? 私なんてまだ十五年しか生きていないのだから、忘れるような過去なんて無いと思うけど?
「何のことですか?」
「うーん、まあ良いよ。それはおいおい話すさ」
クマさんはどこか達観した、浮世離れした雰囲気を纏っている。人と話している感じがしない。まあ、今相手にしているのはクマだけど。
「じゃあこれだけは教えて。貴方は何者? 普通クマって喋らないんだけど」
私は今一番重要な情報を聞き出す。今この場においてもっとも不可解なのは、喋るタオル地のクマで間違いないのだから。
「僕? 僕はね~この文字の森のオーナー兼管理者。いろんな肩書は付け放題だけど、一番通りが良いのは、人呼んで文字の森のクマさんかな!」
なるほど分からん。分かりません。私にはクマさんが何を言っているのか、さっぱり分かりません。人呼んで文字の森のクマさん……人呼んで? 一体ここの何処に人がいるのだろう?
とりあえずこの場所が文字の森だというのは分かっている。そして目の前のこの喋る巨体が、クマだという事だけは分かった。だけどそれ以外は全く分かりません。
「文字の森のクマさん?」
「そう。文字の森のクマさん」
クマさんは繰り返す。彼はまるでこれで説明が終わったと言いたげに、ベンチから立ち上がる。
「行くぞ~」
「どこに連れて行く気ですか?」
「とりあえずここでのルールを教えるからついて来て~」
クマさんは思ったよりも機敏な動きで、柵の向こうに歩き出す。
「わ! 待ってよ!」
私は急いでクマさんの後をついて行く。
「ああ言い忘れてたけど」
「何ですか?」
一体何だろう?
クマさんは歩きながら首を捻る。
「クマと出会ったら死んだふりは意味ないぞ?」
クマさんはそれだけ言って前を向いた。
バレてた。私の寝たふり(死んだふり)がバレてた。途中からは本当に眠っていたから、ふりでも無いんだけれど、それでも見抜かれていた。何者なんだろうこのクマさんは?
私はキビキビ歩くクマさんの後を追いながら、ただそれだけを考えていて、自殺しようとしていたことすら失念していたのだ。
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