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12. にわか雨と別れ
翔太とは大学の「応用言語学」のゼミで
知り合った。
異文化コミュニケーションをテーマとした
ゼミで、ゼミ室は先生が各国で撮ってきた
写真や、表紙がきれいな書籍で飾られていた。
私は大学の授業でゼミが一番好きだった。
他の課目は、数えきれない程の生徒が大きな
教室に集まり、先生が一方的にマイクを
使って講義をする。
出席しても欠席しても先生には全く関係ない。
単位さえきちんと取り、問題なく卒業して
くれれば良いのだろう。
それに対してゼミは少人数制で、先生に顔を
覚えて貰えるし、直接質問をしたり出来る。
「出身は沖縄で、自分探しの為に思い切って
東京へ出てきました。
なので、一人暮らしをしています」
これが始めてのゼミでの翔太の自己紹介だ。
なんとも幼稚な自己紹介だとは思ったが、
さすがに沖縄出身だけあって、はきはきと
話す口調と、健康そうな小麦色の思わず
触れたくなる肌は頼もしく見えた。
両親の反対を押し切って、飛び出すように
沖縄から出て来た翔太は、学費の面倒は見てもらっているが、生活費の仕送りは無い為、
授業が終わるとほとんど毎日、居酒屋のバイト
をしていた。
私も翔太も授業とバイトに追われる身だったが、何故か気が合い、休みの日が合えば翔太の運転するバイクに二人で乗り、風をきりながら江ノ島や茅ヶ崎の海へよく行っていた。
翔太は裏道を走るのが好きで、
知らない道を見つけては行動範囲を少しずつ
開拓して行った。
ある日、偶然見つけた小さなパン屋。
そこは夫婦で営んでいる店でとてもこじんまり
していたが、焼きたてのパンの香りに、
つい誘われて入ってみた。
そして私と翔太はお勧めのベーグルを買い、
海辺で食べた。
あまりの美味しさに私たちは、その店に
もう一度戻り、翔太の夕食用に今度は
ハムカツサンドを買ったのだ。
パン屋の夫婦はとても喜んでくれ、
シュークリームをサービスで付けてくれた。
海沿いに出された露店で一目惚れした
手作りのアンクレット。
シルバーチェーンに赤珊瑚の小さな飾りの
付いた可愛いアンクレットは、翔太が私に
プレゼントしてくれたもの。
「なんかこの石、沖縄を思い出すな」と翔太が言った言葉に、店を出している青年が反応し、「俺、沖縄から出て来たんです」と言うと、
同じ沖縄出身同士、話が弾み、話について
いけない私を30分程ほったらかしちゃうような、人懐っこい性格の翔太。
翔太は冬の海が好きだった。
湘南の夏の海は、沖縄の海とは、あまりにも
かけ離れている為、冬の静かで寒々とした
海の方が好きだと言っていた。
なので、私たちは冬の夕暮れに、
よく浜辺へ降り、砂浜に座っていた。
そして翔太が壮大な海と、大きな波を乗り
こなしているサーファーや、冷たい北風を
いっぱいにはらんで膨れたセイルを操りながら
波を楽しんでいるウィンドサーファーという
風景を鉛筆で見事に描くのを、私は首に
マフラーをぐるぐる巻きにして、
翔太の肩に頭をもたれ掛けて見ていたのだ。
私は翔太の瞳が好きだ。
キラキラしていて、好奇心に溢れる瞳。
物事を真っ直ぐに、そして真剣に見つめる瞳が。
そんな翔太と付き合って、
1年が経とうとしていた。
私がシャワーを浴びて、薄いメイクをして
からバスルームから出てくると、にわか雨が
降ってきたらしく、翔太は窓を急いで閉めていた。
窓から駐車場を見下すと、先程まで楽しそうに
遊んでいた子供たちの姿はもうなかった。
「さっきね、アンクレットの飾りが
取れちゃったの」
「どれ? 見せてごらん」
私は、赤珊瑚の飾りが取れてしまった
シルバーチェーンのアンクレットをテーブルに置いた。
「大丈夫。あとで直してあげるよ」
「良かった...... ありがとう!
紅茶でも飲もうか」
「うん」
私はヤカンをコンロにかけ、大きなマグカップ
とダージリンのティーパックを取り出した。
コンロの隣におまけで付いているような
小さな流しに、翔太がお昼に食べたのであろう
ラーメンの器と箸が置かれたままだったので、
私はそれを洗い、戸棚に片付けた。
「瑞希、俺さぁ......」
「なに?」
「俺、アメリカに行くんだ」
「アメリカ? アメリカのどこに行くの?」
「ニューヨーク」
「ニューヨークかぁ。いいな、誰と行くの?
正也君とか健君?」
「いや、一人で。
旅行じゃなくてね、絵を勉強しようと思って」
「絵の勉強?」
「うん。俺、やっぱり絵が好きなんだ」
「......」
私の言葉の代わりに、ヤカンから「ピー」と
いう甲高い音がなった。
私は静かに熱湯をティーパックの入った
カップに注いだ。
何かを考えていた訳ではない。
ただ、何も考えられずに手を動かしていた。
アメリカ......
急に重くなった頭を私は上げると、冷蔵庫に
マグネットで貼っている写真が目に映った。
去年の夏に撮った写真。
翔太の日に焼けた腕が私の肩をしっかりと
引き寄せている。
二人が同じレンズを見て、微笑んでいる。
私たちが一枚ずつ持っている大切な写真......
私は2つのカップを持ち、翔太とは目を
合わせずに、テーブルにカップをそっと置いた。
私には翔太がこれ以上、
何も言わなくても伝えたい事が分かった。
少し前まで、そう......
この雨が振る前までは、二人で体を合わせ、
心も体もゆだね合っていたはずの私たちが、
これからどうなるのかが分かった。
子供たちが楽しく遊んでいた時間を邪魔したのと同じように、この雨が私と翔太の間を邪魔したのだ。
「熱いから気をつけてね」
私の口からは自然と、いつも翔太に言っている
言葉が出てしまった。
自分でそう言ってから、余計に寂しくなった。
「瑞希、俺......」
「もう決めたんでしょ。
どうせ私が止めたって、行くんでしょ」
「ごめん......」
なんで、そんな大切な事を勝手に決めちゃうの?
一言くらい、
少しくらい相談してくれてもいいのに。
翔太にとって私は何なの?
翔太は私と離れる事が辛くないの?
どうして、どうして......
聞きたい事は沢山あった。
責めたかった。
納得できるような説明をして欲しかった。
でも、私にはそれが出来ない。
話の解かる奴でいたかった。
勝手に離れて行ってしまう翔太なのに、
悪いのは翔太なのに、嫌われたくなかった。
翔太が好きだから、困らせたくなかった。
私が我慢をすればいいのだ。
私は落ち着く為に紅茶を啜った。
とても熱くて舌を火傷した。
さっき翔太に注意したのに自分がやってしまった。
いつもならこんな事、笑い合えるのに。
今は、どうやって笑うのかさえ忘れてしまっている。
「大学はどうするの?」
崩れてしまいそうな自分の体を必死に支え、
声を殺すように、ゆっくりと聞いた。
「とりあえず、休学する。
いつ戻るかは分からないけど」
「そう......」
翔太は自分探しの為に、沖縄から東京へ出て
来て、そして今度は、東京からニューヨークへ
飛び立とうとしている。
「俺が戻ってくるまで待ってて欲しいなんて都合のいい事は言わない。
でも、瑞希の事は今でも好きだよ。でも......」
なんでそんな事を言うの。
いつ戻ってくるかも分からないのに、
好きだなんて言わないで。
そんな優しい言葉を残さずに、「別れよう」って冷たく言って貰った方がいいのに。
そんな事を言われたら、
待ってしまうかもしれないじゃない。
目が熱くなった。泣きたくない。
翔太に涙を見られたくない。
強い女でいたい。
目と奥歯に力を込めて涙を止めようとしたが、
その努力も虚しく、熱い涙が私のまつ毛を
濡らした。
「俺、やっと自分がやりたい事を見つけられた
ような気がするんだ」
声を押さえながらもそう言った翔太に、
返す言葉は無かった。
翔太に絵の才能があることは十分知っている。
美術館へ行けば一人で没頭して2時間も3時間
も眺めているし、エドワード・ホッパーを語らせると止まらなかった。
世界から日本にやってくる名作を観に、
どれだけ美術館めぐりを一緒にしただろう。
絵画の面白さ、見方、感じ方を翔太から教わり、たくさんの同じ時を過ごした......
同じものを見ていたはずなのに......
私の目には見えない景色を翔太は鮮やかに
描き出す。
優しくて強くて、心を動かされるような
メッセージ性のある絵。
そんな翔太の隣にいるのが好きだったのに。
翔太には私が必要ではないんだね......
なんでニューヨークなの?
そんな遠い所まで行かなくては叶えられない
夢なの?
私はどうしたらいいの?
目の前にあるマグカップにデザインされた
ロゴが涙でぼやけている。
この部屋へ通う度に使っていたカップなのに、
どのようなデザインだったかが思い出せない。
私は指で涙を拭った。
もう帰ろう。
この人の元から去ろう......
こんな緊迫した状況に、
鼻水というのは本当に憎いものだ。
涙だけならきれいに別れを告げられるような
気がしたのに、鼻水が出てくると顔はぐしゃ
ぐしゃになってしまう。
私はこんな顔を最後に見られるのが嫌で、
「じゃあね」と呟くように言い、
鞄を握り締めて玄関へ向かった。
そしてミュールを履き、
戸を開けてアパートを後にした。
こういうシーン、ドラマでよく見る。
彼女が部屋を飛び出して走って駅まで駆けて
行く。
それを彼が追いかけて彼女の腕を掴む。
しかし、私は走る必要が無かった。
翔太は追いかけて来ないと分かっていたから。
だから私はさっそうと歩いた。
こうするしか無かったのだ。
前を向いて、真っ直ぐ歩く。
これが惨めな自分を救う一番の手段だったのだ。
私たちの間を邪魔した雨は、
何も無かったかのように、既にやんでいた......
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