7. 革の手帳

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7. 革の手帳

「瑞希ちゃんみたいな若い子を隣に乗せて 運転すると緊張するなぁ」 「本当ですかぁ?」 私はハンドルを握る左手の薬指を、 何気なく見た。 そこには指輪はなかった。 独身なのか、 それとも既婚者の証を付けていないだけなのか。 どちらにしても、可愛い子猫ちゃんは、 何人か存在するだろう。 そんな人が私なんかを乗せたくらいで緊張する はずがない。 と思ったが、 すぐに私は自分の推測を訂正した。 どうやら運転は得意ではないらしい。 カーナビを付けているにもかかわらず、 道を間違えてUターンをし、そして右に ウインカーを出して追い越し車線に出たにも かかわらず、ウインカーを元に戻し忘れている。 カチカチカチカチ...... 教えてあげた方が良いのだろうか。 しかし、自分で気付いたならまだしも、 こんな小娘に「ウインカーが付いてますよ」なんて言われたら、この人のプライドは傷つくだろう。 きっと普段は、専属の運転手がいて後部座席でゆったりと座っている身分なのだろうと思いつつも、やはり気になる。 なんだかとても居心地の悪い空気が流れ始めたので、私は何か話せねばと思い、会話を考えた。 「ジャズがお好きなんですか?」 「うん、好きだよ。 他のが良かったら変えるけど」 「いえ、私も好きです。 父がジャズ好きなので、小さい頃からレコードがリビングで流れていました」 「へー。お父さんはお幾つなの?」 「今年、55歳です」 「55歳か。じゃあ10歳違いか......」 10歳違いという事は、この人は45歳。 思わぬところで疑問が1つ解消した。  その時、さっきから気になっていた ウインカーの音が消えた。 やっと気が付いたようだ。 「瑞希ちゃんは、ジャズの生ライブを聞いた 事ある?」 「はい。高校の卒業旅行として家族でニューオーリンズへ行った時に、ライブハウスに入りました」 「おっ、ニューオーリンズはジャズの本場だもんな。私も行った事があるよ」 「向こうの人は、日本とは違って、 みんなで踊りながら楽しむんですよね」 「そうそう、最初に行った時は、戸惑ったよ」 私はいつの間にか、 言葉を選び選びだが喋っていた。 「そうだ、忘れてた。瑞希ちゃんのスマホ、 さっき電話をした時、繋がらなくて、 すぐに留守電になっちゃったよ」 「すみません。そろそろ新しいのに替えようとは思っているんですけど......」 「そうなの。じゃ、今から買いに行こう」 「えっ? 今からですか?」 「だって、繋がらない物を持っていても 仕方ないだろ。経費で落としてあげるから」 「そんな。 それより、外回りはいいんですか?」 「いいよ。そんなの」 一人で楽しそうな顔をしている社長の考えている事がよく解からない私は、急に不安に襲われた。  結局、1時間後の私の手の平には、 最新のスマホがのせられていた。 「お腹空いたね。そろそろ夕食にしない?」 「でも、私そろそろ......」 「あぁ、もう19時前だもんな。じゃあ、すぐ 近くにあるイタリアンにしよう。なかなか美味しいパスタを出す店だよ」 私が言いたかった事が伝わらなかったのだろうか、それとも無視されたのだろうか。 私はだんだん嫌な予感がしてきた。 この食事が済んだら、どうするのだろう。 この短時間で小泉という男の性格がなんとなく 解かったような気がした。 一言で言えば自己主義。自己中。自分勝手。 こんな男の運転する車にのこのこと乗っていた 無頓着な私は、今更ながら身の危険を感じた。  しかし、あれよあれよという間に、 お勧めのイタリアンレストランの窓際の席に 私は着いていた。 しかし食事どころではなく、 どうやってこの後、このエゴイスト男から逃げ出そうかと思案している私が、なかなかメニューを決めないので、社長は、私の分も自分と同じ前菜とパスタを注文した。 「瑞希ちゃん、どうしたの?」 口数が少なくなった私に気付いた社長の一言に、またしても私の心に不安の細波が立ち始めた。 私は返す言葉が見つからず、ただ首を振った。  食事中、社長のする話に、適当に相づちを 打っていた私は、ふと周りを見回し、他の客 から、私たち二人はどんな関係に見えている のだろうと思った。 45歳の「男」と19歳の「女」と呼ぶには まだ早い私。 どうみても「援助交際」または「愛人」だ...... こんな所を両親に見られたら大変だ。 友達に見られてもややこしくなる。  食後のコーヒーは、苦かった。 いつもはミルクをたっぷりと入れるが、今日は そんな余裕はなくブラックで飲んでしまった。 「どう? 美味しかった?」 「はい。美味しかったです......」 本当は味なんて味わえなかった。 何を食べたのかもほとんど覚えていない。 ただコーヒーの苦味だけが口に残っていた。 私は、すっかり氷が解けてしまった水を一口 飲んだ。 「さてと、じゃあ行きますか」 「はい......」 えっ、どこへ行くの? この人、何を考えているの? 「これから横浜駅まで送っていけば、 21時過ぎには家に着くかな」 「えっ。はっ、はい。着きます」 「良かった。あんまり遅くまで連れまわすと、 ご両親が心配するからね」 私は思わず息を吸って、そして今まで心配していた事を恥ずかしく思い、一緒に吐き出すように、大きく呼吸をした。 「あの、お手洗いに行って来てもいいですか」 「いいよ。 まっすぐ行って右に曲がった所だよ」 私がお手洗いから戻ってきた時には、 すでに社長は会計を済ませていた。 「さっ、行こうか」 「はい。あの...... ご馳走様でした」 ご主人様を待っていたBMWに乗り込むと、 社長は財布と手帳を取り出した。 「今日は、17時から20時30分までだから、 7,000円かな。そうだ、待たせちゃった時の 領収書は?」 「あっ、カフェには入らなかったので」 「そうなの?  じゃあ、今日はプラス交通費で8,000円ね」 「でも、今日はバイトの仕事をしていませんし、スマホまで買って頂いたので......」 「またそういう事を言う。瑞希ちゃんは アルバイトで来ているんでしょ?」 「はい......」 「じゃあ、社長の俺が、時給を払うのは当然だろ?」 そりゃ、好きでもない人と車に乗り、食べたかった訳でもないのに食事をしたのだから、何も貰わずに帰るのは、なんだか損したような気がする。 でもこんな車の中で、現金をこの手で男性から 受け取るというのは、気が引ける。 私が困った顔をしていると、社長は私の鞄の 外側に付いている小さなポケットに、8,000円 を差し込んだ。 そして革表紙の手帳にサインをさせ、 車を発車させた。  横浜駅に着くと東口に車を寄せて、 サイドブレーキを引いた。 「次は木曜日だったよね。この前スタジオで 会った森岡さんの予約が入っているから、 17時にメイクルームに行ってね。須藤が、 瑞希ちゃんをより綺麗にしてくれるよ。 それと俺、『社長』って呼ばれるのが、 堅苦しくてあんまり好きじゃないんだ。 だから『小泉さん』とでも気軽に呼んでよ。 みんなそう呼んでるから」 私は小さく頷いて、車を降りた。 するとその車はハザードランプを付けたまま 走り出した。 私は点滅し続けている車がカーブを曲がり切り、完全に見えなくなるまで呆然と立ちつくしていた。 ...... 嫌なら辞めればいい。 今日、社長......いや、小泉さんの為に費やした時間に相応するお金は、鞄のポケットに入っている。 今すぐ事務所に電話をして「辞めます」と 一言、言えばいいのだ。 そうしたら、こんな複雑な気持ちも不安の念を 苛む必要もないのだ。  祥子だったら8時間働いて手に入れる金額 を、私はたった3時間程で、しかもスマホを 買いに行って、食事に付き合っただけで、 手に入れてしまった。 私はなんとなく罪悪感に心の奥を責められた。 でも、次の木曜日はモデルの予約が入っている と言っていた。 だから自分勝手な小泉さんに付き合う必要は ないのだろう。 モデルの仕事は一度やってみたい気もする。 一体、私はどうしたいのだろう。 自分で自分の気持ちが分からない......
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