9. アイスの実

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9. アイスの実

じめじめとした梅雨も明け、 今年も夏がやって来た。 来週は翔太と湘南に行く予定が入っている。 私は「湘南平」に行こうと思っていた。 360度パノラマが広がる展望台から富士山や 相模湾、山も海も夜景も楽しみたい。 そして、恋人たちが永遠の愛を誓って掛ける 南京錠を、あの名物のモニュメントに、 私たちも掛けるのだ。  乗客がまばらなバスを降りると、ムッとした 空気と一緒に、車道にたち込める排気ガスを 私は思いきり吸ってしまった。 カゴバッグから母から借りてきた黒いシックな 日傘を出してさし、私は日陰を作ってくれてい る、つややかな緑色をした木々の下を歩いた。  事務所を通り、メイクルームにノックをして 入ると、須藤さんの姿はなかった。 私は引き寄せられるように、鏡台へ向かった。 そこにはガラスのケースに閉じ込められた、 ラメ入りの水色や、ターコイズブルー、 シルバー等のアイシャドーが並べられていた。 (綺麗な色......) 私はそのアイシャドーに鼻の先が付きそうな ほど、身を屈めて見とれていた。 「瑞希ちゃん、おはよう! 外、暑かったでしょ」 「あっ、須藤さん。おはようございます。 これ、綺麗な色ですね」 「新色よ。 今日のメイクでつけてあげるからね」 そう言って、須藤さんは手に冷たそうに持って いた「アイスの実」を私に差し出した。 「わぁ、ありがとうございます」 「さっき、差し入れで貰ったの。 これ、美味しいよね」 須藤さんは、ポンッとアイスの実を口の中に 入れた。 そして自然なブラウンの柔らかい髪を、 手慣れた手つきでクルリと一つにまとめて ピンで留めた。 その姿に私はつい見とれてしまった。  この須藤さんが、私の事を名前で呼んで くれるようになったのは、つい最近の事だ。 26歳の彼女も、学生時代にここでモデルの バイトをしていた。 それでメイクに興味を持ち、美容の専門学校に 入り直したそうだ。 そして卒業後2年程、他で契約社員として 働いていたが、同僚たちと上手くいかず、 小泉さんを頼ってこの会社の正社員として 働くようになったらしい。  須藤さんは色白で、無造作なアップスタイル がよく似合う。 綺麗な顔立ちをしていて、繊細な女性らしさが あるのだが、モデルとしてアルバイトに来ている若い子たちとは、必要最低限の話しかしない。 なので、アルバイトの子は「おつぼね」とか 「社長の愛人」とか、笑いながら陰では噂話 をしていた。 私はそういう話に耳をかさなかった。 全く面白みの無い話題だからだ。 逆に、須藤さんの気持ちの方が理解できた。 この態度に須藤さんは、何かを察したのか、 私とは少しずつ会話をしてくれるようになった。 そして、私が苗字ではなく名前で呼んで欲しい と言ってからは、「瑞希ちゃん」と、名前で 呼んでくれるようになったのだ。
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