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「じゃあ、私もお昼ごはん買いに行くから、駅まで一緒に」
去年の六月に新調した短いレインブーツを履いて、私は彼と一緒に家を出た。駅まで続く商店街、雨のせいか歩く人は少なかった。薬局のおじさんが、お店の中から不安そうに雲に覆われた黒い空を見上げている。
その隣、ずっと「いつか来ようね」と話していたお寿司屋さんが目に入る。
「結局、一度も来なかったね」
言うと彼は
「京ちゃんは来たらいいよ。しばらくこのあたりに住むんだろ」
「そうだね」曖昧に言いながら、ぐうっとお腹の鳴る音がするので彼の方を振り向くと、笑って「ごめん、腹は減ってる、今」と彼が正直に言うので私も笑ってしまう。
「せっかくだし、入ろうか」
そう言うと、彼は大きな傘をたたみ、立て付けの悪そうな扉をガラッと開ける。
この近所にしては敷居が高そうなお店、と話していたのに全然そんなことはなくて、気さくな女将さんが「いらっしゃいませ。雨の中、すみませんね」と話しかけてくれる。店内はカウンターが数席で、中央には無口な印象の板前のご主人が迎えてくれる。女将さんから日本茶をいただくと、湯呑にそっと手をやりすっかり冷えた指先を温める。
「どれにする?」訊くと
「せっかくなら、特上にしようか」
「うに好きだったよね」
「エビも好きだよ」
そんなやり取りをしていると、女将さんが柔らかい笑みを浮かべながら、
「若いって本当にいいわねえ。とってもお似合いねえ」と言ってくる。
もうじき三十五で、きっと女将さんが思っているよりも若くもなく、しかも「今日別れるんです」とは到底言えずに私たちは苦笑いに見えないようにぎこちなく笑う。
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