序章~幼きブリュンヒルドの瞳に灯る狂気~

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序章~幼きブリュンヒルドの瞳に灯る狂気~

 二人の魂は一つとなって永遠に燃える  たとえ、死が二人を分かつても――。  夕陽に融けた紅葉が燦々と舞う昼下がり。  秋色の芝生に子どもの無邪気な足跡を並べたような丸い石畳。  十八世紀の欧風(ヨーロッパ風)の赤煉瓦の一軒家で、とある四人家族は穏やかに暮らしていた。  温厚で心優しい家主である夫婦は国民の奉仕者と謳われる「公務職」の人間だ。  両親が仕事で家を空けている間、二人の子ども達は今日も仲睦まじく過ごしていた。  二人きりの憩いの時は、どこか背徳的な秋の光に染まり、ひどく心地よくてたまらない。  そんな艶やかな欲に耽る心の声を零すのは、果たして妹と兄のどちらだったのか。  七歳の妹は、十三歳になる兄の膝上に腰掛け、一冊の古びた本を読み聞かせてもらっている。  幼い妹の腰辺りで艶やかに波打つ漆黒の長髪を、兄は花に触れるような手付きで優しく梳く。  大と小の紅葉が重なるように、妹の幼い手に添えられた逞しい手。  妹は絵本の頁を自由な調子で黙読してはめくることを無邪気に繰り返す。  絵本へ注がれた純真無垢な眼差しが悲壮な色に揺らいでいく様を、兄は愛しさを孕んだ瞳で飽くことなく眺める。  「とっても、悲しいお話ね。二人共、とっても、ね。」  「ああ、そうだね。」  「シグルズもブリュンヒルドも、愛し合っていたのに……」  仲睦まじい兄妹が読んでいた絵本は、古代北欧の神話『ヴォルスンガ・サガ』。  邪竜退治を為した勇猛果敢な英雄シグルズ。  死の天使からヒトの身に堕ちた麗しの乙女ブリュンヒルド。  雄々しく美しい二人の悲恋を綴った壮絶な物語。  名剣グラムの使い手・シグルズは、邪竜の財宝を得るために邪竜を退治した後、乙女ブリュンヒルドと出会う。  煉獄の炎の茨に囚われていた美しき乙女に英雄は一目で恋に落ちた。  救出されたブリュンヒルドもシグルズを強く愛した。  シグルズは愛と契りの証として、ブリュンヒルドに魔法の指輪を贈った。  しかし、旅の道中で寄った館の主・グリームヒルド王妃の卑劣な策略によって、二人は引き離された。  忘却の眠り薬を盛られたシグルズは、ブリュンヒルドへの真実の崇高なる愛を消された。  ブリュンヒルドを忘れてしまったシグルズは王妃の娘と結婚することになった。  「何故、ブリュンヒルドはシグルズを殺してしまうの? ブリュンヒルドはシグルズを愛しているのに」  王妃の息子と無理やり結婚させられそうになったブリュンヒルドは、シグルズの裏切りを許さなかった。  愛憎の炎に身も心も焦がしたブリュンヒルドは、シグルズを自ら手にかけた。  狂おしい悲憤と失意の渦中、ブリュンヒルドは愛しい人の骸を抱いたまま己の身を炎で焼き尽くした。  実は、ブリュンヒルドに贈った指輪は、「持ち主が"非業の最後"を必ず遂げる」呪われた魔具だった、と知らずに。  呪われし悲恋の運命。  卑劣な策略と不条理なすれ違いが生んだ悲劇。  相手を殺さずにはいられないほどの狂おしい愛と憎しみ。  深淵の恋心を理解するには未だ幼い妹は、やるせなさに潤んだ双眸で、兄を後ろ向きに見上げる。  「そうだね……ブリュンヒルドはシグルズを心の底から愛していた。だからこそ、自分の愛を裏切ったシグルズを許せなかったと思う。たとえ、"呪いのせい"であっても」  「そうなの? でも、大好きな人が傷ついたり、いなくなったりしたら、もっと悲しいよ」  「――は、優しい子だね。でも、――には未だ難しいかもしれないな」  「うん……ブリュンヒルドとシグルズは、かわいそうだよ……」  呪いの指輪さえなければ。  王妃の卑劣な罠さえなければ。  そもそもブリュンヒルドが憎しみの赴くがまま、愛する者を手にかけることを踏み止まっていれば。  二人の哀しき結末に納得がいかない妹は無垢な胸を痛める。  「そんなことはないさ、――。二人共、最後は"あれでよかった"のかもしれない」  「どうして?」  妹想いの兄は、諭すような優しい声で慰めの言葉を紡ぐ。  「愛しているからこそ、愛する人が自分を裏切った深い悲しみを、相手にぶつけずにはいられなくなる。なら、愛する相手と自分を"炎"に焼べてしまえばいい」  愛おしいものを撫でる手付きで絵本の挿絵をなぞり、恍惚とした眼差しで妹を見つめながら。  「さすれば、愛し合う二つの命は溶け合い、唯一つの"真実の愛"へ至る。邪魔する者は誰もいない。たとえ、死が二人を分かつても」  確信と幸福に満ちた兄の表情と口調から、妹は幼いなりに理解した。  穏やかに微笑む兄と呼応するように、妹も笑顔を咲かせた。  「じゃあ……死んでも二人は、これからずっと一緒にいられるの?」  「そうだよ。だから、ブリュンヒルドとシグルズは永遠に一緒で、幸せなんだ」  「よかったぁ……! じゃあ、悲しいことがあっても、最後に二人は一緒に死んだから幸せになれたのね?」  かくして、優しさの知性で紡いだ兄の言葉は、恋知らぬ無垢な妹の胸を慰めた。  妹の顔にあどけなく咲いた屈託なき笑顔。兄も澄んだ双眸を柔らかく細める。  そして、静謐の声に温もりを滲ませて妹を呼んだ。  「そうだよ、――。だから……。」  妹の煌めような無垢可憐さに、兄は微笑んだまま、滑りの良い髪を撫でる。  大好きな兄に髪と頭を撫でてもらえるのが余程心地良い妹は、より嬉しそうに目を細める。  しかし、穏やかな兄がほんの数秒、息を呑むように沈黙したのに気付いた妹は、もう一度振り返った。  「お兄ちゃん?」  無邪気な瞳に兄だけを映しながら、やや舌足らずな声で呼んでみる。  しかし兄は返答しない代わりに妹の可憐な矮躯が崩れ落ちないよう、両手でしっかりと抱きしめた。  仲睦まじい兄妹の瞳は、互いに吸い寄せられるように溶け合う。  叡智を匂わせる兄の優しい瞳。  深淵の静寂が溶けた美しい水色。  全ては妹の記憶に焼きついて離れない。  しかし、身を焦がすほど苛烈な感情も――この世に蔓延る不条理も――未だ多くを知らない無垢な妹は、後に思い知らされる。  己の瞳を囚えて離さなかった兄の激情も。  互いの瞳の奥に灯る狂おしい炎の正体を、相手だけは見透かしていたことも。  ***
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