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蛍の率いる霜月班が向かったのは、第二の猟奇殺人事件の通報があった『五月マンション』の一室。
事件現場の部屋から水漏れが発生していることに気付いた管理人は、浴室で亡くなっていた被害者を発見した。
「被害者は、『児童救済相談所』の所長『肇・佐々木(四十五歳・男性)』。死亡推定時刻は、今朝の午前六時頃。精密な検証は鑑識部から分析部へ回します」
先に現場へ派遣された鑑識官と刑事官から、事件調査の進捗状況の説明を受ける。
蛍達も現場と遺体の確認しに浴室へ向かう。
お湯は止まっていたが、入った瞬間に熱い湯気の残滓を浴びた。
シャワーから流れていた熱湯はかなりのだったらしく、生気が失せたはずの皮膚は桃色に腫れあがっていた。
浴槽の底で仰向けに伏せている佐々木の遺体も案の定、一糸纏わぬ姿で痛ましかった。
しかし、それ以上に霜月班の顔を曇らせたのは常軌を逸した遺体の嬲られ様だ。
「あー、こりゃひでぇな。仏も何もあったもんじゃねえよ。お前らも無理はすんな」
軽口を叩いてみせる黒沢だが、普段の飄々とした笑みは消えていた。
惨殺死体に耐性のない後輩刑事官は、吐き気を催したのか真っ青な顔で口元を押さえている。
気分悪そうに俯く後輩を気遣った黒沢の台詞で、彼らは退室を余儀なくされた。
いかに警察であろうと、彼らの反応はごく自然なものだ。
蛍ですら、凄惨な死の現場を怜悧に観察し慣れている己の正気を疑いたくなるくらいなのだ。
物言わぬ屍となった佐々木の両の眼球は神経残さず抉り取られていた。
仄暗い眼窩から黒く光るのは、『謎のカメラ・フィルムケース』だった。
犯人は殺害後に両目を抉ってから、その空洞へ異物を詰め込んだと思われる。
第一事件に続く猟奇的な殺害方法に、刑事官一同は恐怖や憤慨といった多数の感情の混じった表情を浮かべる。
唯二人、蛍と黒沢を除いては――。
「こちら霜月班長・櫻井刑事官。首尾はいかがですか、浜本刑事官」
最中、佐々木が勤めていた児童救済相談所へ調査に向かっていた葉月班からの定期連絡が入った。
浜本の率いる葉月班は相談所の関係者から気になる情報を入手できたらしい。
『調べた所、相談所の"一人の男性職員"が三日前から無断欠勤を続け、連絡が途絶えているらしい』
「その職員の身元と住所は分かりますか」
『詳細情報は君達の端末にも送る。だが、俺達葉月班は一足先に「朧月」の住所を当たるつもりだ』
「了解しました。こちらも直ぐに現場検証を終えるので、そちらへ合流します」
浜本リーダーは、朧月の情報ファイルを霜月班員へ一斉送信してくれた。
受診した情報をホロ画面に表示してから、蛍は内容を読み上げる。
「浮上した朧月は、『二郎・石井(二十五歳・男性)』。相談所に併設された児童保護施設・『慈愛ホーム』の保育士です」
浜本の報告曰く、一週間前の十一月七日、児童救済相談所で妙な出来事があった。
相談所の面接室で被害者の佐々木と石井が激しく口論していた場面を他の職員は目撃した。
その時の口論が原因か否か、内容も定かではないが、その後から二人共に無断欠勤と音信不通が続いた。
となれば、佐々木の死に関与している嫌疑は石井へ必然的に向けられる。
他班と共有した情報から次にすべきことを把握した蛍は、自分の班員達へ葉月班と合流する旨を伝えた時だった。
「何だ……コレは?」
まさに死神がほくそ笑んだ瞬間だった――。
鑑識官達の驚きに気付いた蛍は、即座に浴槽へ歩み寄った。
「櫻井刑事官。遺体の背中に、妙なものが……」
浴槽から引き上げられてから、敷物へうつ伏せに寝かされた遺体へ蛍は目を凝らした。
生の鶏皮さながら白褪めた背中全体に、赤黒い創傷が刻まれているのを見つけた。
犯人は刃物で被害者の背中を突き刺し、痛ましい文字を彫ったようだ。
犯人の異常な嗜好もしくは、くだらない自己顕示欲の刻印かと思った瞬間――。
「どうかしたか、櫻井刑事官」
氷のように冷静な表情を常に浮かべる蛍が、呼吸と瞬きを忘れて遺体の傷跡を凝視している。
普段の蛍から感じられない、ただならぬ雰囲気に光は不安に駆られた。
一方、光の声すら耳に届いていないらしく、蛍は沈黙に伏せたままだ。
あの蛍をこれほど動揺させている“何か”の正体を確かめるべく、光と黒沢も固唾を呑んで遺体の背中を覗き込む。
背中に殴り書きされた傷文字の内容を視認した瞬間、刑事官達の間にも動揺が広がった。
蛍は血の気の失せた表情で遺体を冷たく見つめたままだった。
どうして、こんなものが、こんなところに……?
犯人が遺体に残していった意味深な伝言は、蛍の心臓を冷たく刺し穿った。
懐かしさを孕んだ寒気に震えた蛍の脳裏を過ぎったのは――。
どういうことなの――義兄さん――……?
『深淵をのぞきこむ者は、深淵からものぞきこまれているのだ』
***続く***
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