其ノ二『追跡劇』

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 五月マンションの浴室で殺害された、児童救済相談所の所長・「肇・佐々木」。  彼の背中に彫られていた謎の文章は、犯人の重要な手がかりとして画像保存された。  「ごくろうだったな、櫻井刑事官と諸君」  霜月班率いる蛍は、被疑者の「二郎・石井」の自宅マンションで、浜本率いる葉月班と合流し、"作戦''の打ち合わせをする。  高潔な戦乙女を彷彿させる佇まい。  脳内へ澄み渡るように冷凛とした声。  蛍の存在自体は誰もが不覚にも魅入るほどに美しい。  一方、波紋なき薄氷のような眼差しも声も、普段以上に冴え渡っており、どことなく光を不安にさせた。  「どうかしましたか、藤堂刑事官」  勤務中は表情を崩さないつもりでいる光の微かな変化を蛍は敏感に察知した。  しかし、光は「何でもない」、と首を振った。  修羅場を辿ってきた仲間として、大切な女として、蛍を知っているつもりでいた光は薄々勘づいている。  遺体の謎の文章を発見した時から、蛍が不安や焦燥を胸へ凍り閉ざしながら任務に取り組んでいること。  原因は光の想像すら及ばない、底知れぬ<ruby>何か> であること。  ただ勤務中の手前、恋人を特別気遣うような公私混同は許されない。  氷の仮面を被る蛍へかけるべき言葉も時期も掴めない光は、ただもどかしさを覚えた。  「やはり、応答しないか。逃亡の可能性を考慮すれば、家宅捜査をしてみるが……はあ、今から簡易裁判所に連絡しないと」  石井被疑者の住む部屋の扉で身構える蛍達。しかし、先頭の浜本がインターホンを鳴らしても応答はない。  代わりに、扉に搭載されたマンションの安全警備(セキュリティ)機能AIが、部屋主の留守を伝える音声を流した。  ルーナシティでは、管理主ならびに建築会社は住居の安全警備機能を設置する。  各区域の犯罪被害率に応じた基準を満たす義務がある。  万が一、入室許可者に登録されていない人間や強盗に押し入られた場合、警察への自動通報システムも搭載されている。  ただし、今回の場合は蛍達が通報や依頼抜きで一般宅へ押し入るには、本部や裁判所からの許可が努力義務となる。  「『令状』なら、ここに。予め連絡して正解でした」  「……さすが仕事が早いな、櫻井刑事官」  蛍の警察端末(ポータブルポリス)の画面に表示された令状に、浜本は呆れと感嘆の溜息を零した。  警察権限に家宅捜索ならびに身柄確保の令状さえそろえば、鉄の扉に守られた密室も(わら)の家だ。  浜本は自身の警察証を表示した通信機を扉の警備モニターにかざした。  警察証は、あらゆる建物や施設の安全装置を通過する万能通行証となる。  被疑者や犯罪逃亡犯がどこへ隠れていても、警察はあらゆる安全装置を突破して彼らを取り押さえられる。  令状によって、警察権限の濫用と悪用を防ぐ一方で、円滑な公務執行による犯罪の早期解決が優先される仕組みだ。  「もぬけの殻か……奴はどこにいった?」  万一に備え、拳銃を手にした浜本達は石井宅へ押し入った。  しかし案の定、室内には石井の姿も気配もない。  被疑者の逃亡は想定済みで、蛍と浜本は冷静に状況を述べ、後方の刑事官達は悔しそうに唇を噛む。しかし、蛍の仕事はここで終わりではない。  「家宅捜索を始めましょう。事件だけでなく、逃亡先の手がかりも見つかるかもしれません」  冷凛とした蛍の声かけによって、浜本以外の刑事官も決心を固めた。  さっそく蛍達は髪の毛一つ探す勢いで、部屋中を隅々まで捜索し始めた。  本人は不在だが、佐々木殺害事件の動機や犯人の手がかりを探すことは可能だ。最中、寝室の押入を物色していた黒沢は壮大な溜息を吐いた。  「あーあぁ。せめて成人向け(アダルト)媒体の一つ二つは隠してねーか、期待していたのによ」  「え……?「いい加減にしろ黒沢。櫻井刑事官、こいつの言葉は無視しろ」  黒沢が気だるそうに零した不満に混ぜた猥言。  緊迫した状況と黒沢の台詞が似つかわしくないせいか、意味を呑み込めなかった蛍は双眸を丸くするのみ。  波紋なき水面の眼差しにいたたまれなくなった光は、蛍を庇うように前に出ると黒沢を咎めた。  「冗談だぜ」、と悪そびれずに笑い零す黒沢に、今度は浜本の正義の鉄拳が飛んだのは言うまでもない。  「よく分かりませんが……お手柄です、黒沢刑事官」  一方、皮肉や冗談の通じない完全勤務モードに入っている蛍は、黒沢を淡々と労った。  飴と鞭で釈然としない表情の黒沢だが、彼が一番先に手がかりを発見した功績は認められる。  さっそく蛍は黒沢の見つけた“妙なもの"を自ら確認すべく調べ始める。  立てつけの悪い古びた押入れの奥に見つけたのは――これは、"シミの痕"?  蛍の瞳に映ったのは、箱らしき物体を置いていた痕跡を示す赤褐色のシミだった。  手袋の指先でシミの痕をなぞって、感触と色の具合を確かめる。  この位置にあった何かが、つい最近持ち運ばれたと思える。  赤褐色のシミを凍てつく眼差しで凝視する蛍を他所に、後方から浜本の指示が聞こえた。  「一時撤退するぞ。長居は無用だ」  .
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