其ノ二『追跡劇』

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 「さすが、光刑事官様。相変わらずお前は律儀だな。あの調子じゃあ、応じる気配はハナからねーだろ?」  「銃を突き付けられたままお前に恫喝されたら、誰だって怯える。先ずは相手が落ち着くまでを見計らって対話と交渉を試みるんだ。そしたら、今後の取調にも効率的だろう」  厚い床と天井に隔てられた安全地帯が生んだ油断と隙。  微かな足音だけで、相手の特徴と位置まで特定する秀逸な聴力を備えた警察がいるのだ、と一体誰が想像できたのか。  冷やかな美しさをたたえる女刑事官に銃で牽制され、粗野なチンピラ男刑事官に恫喝され、お人好しっぽい優男刑事に気を遣われて。  異彩を放つ三人に追い詰められているはずの石井は、怯えを忘れて呆気に取られた。  「昔からほんと変わんねーなぁ。真面目でお人好しな所」  「私は光のそういう所、仕事面においても好きだけど」  「こんな時にのろけるなよ、蛍」  「違います。私は光の真摯な勤務態度を評価しただけのことです」  「お前らな……」  まるで、大学の友達同士のやり取り。  呑気な会話を目前で繰り広げる奇妙な三人組に困惑していた石井。  自分が軽んじられているような苛立ちに瞳に鋭さが戻った石井は、隙をついて逃亡を図る。  しかし、石井の爪先が一歩を踏みしめる寸前に氷柱の眼差しは彼を逃さなかった。  華奢な手の内で無機質に艶めく拳銃も石井を再び牽制した。  今度こそ追い詰められた石井は理不尽な強敵を前に虚勢を張る動物さながら、怒りと怯えの眼差しで睨む。  しかし、石井だけを見つめている無垢な氷の瞳は、彼の心をみるみる凍りつかせていくのが分かった。  「二郎・石井。我々は事件の早期解決を望みます。無益な被害を止めるためにも、あなたの情報は必ず役に立ちます」  感情の景色を映さない、薄氷のように冷めたく危うい蛍の瞳。  何よりも美しく、底冷えするほどに恐ろしい。  「あなたが黒だというのなら罪を贖いなさい。違うというのであれば、どうか、我々に従って協力を」  侮蔑や敵意がまるで見えない、凛と澄んだ眼差しで、蛍は石井へ慇懃に語りかけるてくる。  氷のように冷たくも美しく澄んだ声を聞いていると、光と黒沢も不思議と心が穏やかに冷え渡る。  「……ふざけるな……俺は何も知らない。俺は悪くない。悪いのは全て――あの男だ――!!」  しかし、蛍の説得は石井の静かなる怒りを発火させたらしい。  逆上した様子で声を荒げると、脇に置かれた植木鉢を咄嗟に掴んだ。  渾身の憎悪と怒りを込めた凶器は、蛍の顔面めがけて真っ直ぐ飛んできた。  それでも、石井を真っ直ぐ捉えたまま微動だしなかった蛍の瞳に――小さな驚きが瞬いた。  「大丈夫か!? 蛍っ」  「――また、無茶をして。私は大丈夫。光、怪我は」  「このくらい平気だ」  咄嗟に蛍の前へ出た光は、投げられた植木鉢を片腕で受け止めた。  蛍を庇った光の右腕から粘土色の欠片と渇いた土が零れ落ちる。幸い、擦傷も出血もないことに蛍は内心安堵した。  氷鉄のように硬く鍛錬された蛍が本気になれば、植木鉢の回避も粉砕も可能だった。  蛍の強さも賢さも、相棒の光は分かり切っている。  それでも、自分の大切な女は我が身を挺して守りたい――。  蛍に対する光の愛情、男としての本文、矜持(プライド)と意地だ。  ある種の満足感に唇を綻ばせる光に、蛍は冷徹な瞳に呆れ、唇には微笑みを浮かべていた。  「お二人さん! イチャつくのもいいが、朧月さんが逃げるぞ!」  わざとらしい焦りを込めた黒沢のかけ声に、光は即我に返った。  植木鉢を投げつけた隙に、石井は玄関の扉まで遠ざかっていた。  これで逃げられる――勝利を確信した石井は、歓声をあげるような乱暴さで扉を勢いよく叩き開けた。 .
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