其ノ二『追跡劇』

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 「……ふふっ。やっぱり光には、敵わないわ。いつも私のこと、そんなに見つめてくれたのね」  「馬鹿っ。変な意味で言っているんじゃなくてだな」  一方、光の唐突な問いに蛍は思わず穏やかな笑みを零した。  相手の浮気をさりげなく問い詰めるのと似たぶっきらぼうな声色。  けれど、蛍だけを映す瞳は太陽のように温かくて、光の真摯な愛情が灯っている。  光をよく知らない相手には、生真面目でぶっきらぼうな物言いが近寄りがたい、としばしば誤解されることも。  しかし、不機嫌そうに“見えるだけ“の光の言葉へ耳を澄ませば、彼自身の誠意と思いやりは確かに伝わってくるのだ。  取り繕う器用さも、嘘で誤魔化す狡知さとも無縁の、実直な情熱と優しさが、蛍には何より愛おしかった。  光の不器用な愛情をもっと感じてみたい、照れくさいほど嬉しいとい気持ちから、蛍はあえて揶揄ってしまうことも。  「もしかして、佐々木所長の遺体に刻まれた『怪文書』――気になっているのか」  そんな無邪気な質問返しを零す蛍に、光は甘い感情を伴う悔しさに駆られる。  普段なら惚れた弱みを発揮しそうだが、今回はそうはいかない光の本気を察した蛍も、ようやく微笑みを消して本題に入った。  「ええ。実は私、子どもの頃に本で読んだことがあって、知っているの」  遺体の背中に彫られていた、或る有名な哲学の言葉。  胸の深淵を覗き込まれるような侵蝕感や不安、ざわめきへ無性に駆り立てる呪文のような。  『深淵をのぞきこむ者は、深淵からものぞきこまれているのだ』  十九世紀の著名な哲学者・フリードリヒ・ニーチェが、著書・『善悪の彼岸』で記した言葉。  強者を徹底的に排斥することで成立させる「平等という名の救済」を謳い縋る弱者の嫉妬・怨恨(ルサンチマン)。  それは、歪な正しさと平等を強要し、人間らしい向上心を奪う宗教がもたらした負の状態である、とニーチェは非難した。  生産性と効率性、合理性を重んじる時代では、空腹や財布を満たすことのない哲学と文学を放棄しがちになっている現代人。  人間の生死や魂の次元を思考追求を嗜む人間は「絶滅危惧種化」している空虚な時勢に、わざわざ哲学文章を残した犯人の意図は不透明だ。  単にインテリぶりたい犯人の自己顕示欲による悪戯。もしくは意味不明な怪文で警察を困惑させて嘲笑うくだらない作戦だ、と刑事部ではあまり重要視されていない。  しかし、蛍唯一人はニーチェの引用文にこそ真犯人の正体と動機を解く鍵があると推測している。  ニーチェの引用文にこだわるのには理由がある。蛍にとってひどく懐かしい文章を読んだ瞬間、脳裏で鮮烈に閃いたものがある。  ――蛍――  純氷さながら冷たく透き通った声が蛍を優しく呼ぶ。  雪に咲く花のような微笑み。  古紙に記されたニーチェの文字をなぞる白磁のような指先。  久遠の過去に葬られたはずの存在が今、蛍の耳元で囁いた――。  そんな奇妙な感覚に一瞬だけ眩暈を覚えた。  「なあ……蛍から見て、石井被疑者はどう思う?」  刹那、蛍が遠い瞳をしていたことに心配したのだろう。  事件の話題をさりげなく移した光の問いかけに、蛍の意識は現実へ戻った。  「あくまで俺の主観に過ぎないが、石井があの残忍な事件を起こした快楽殺人鬼には、正直思えないんだ」 .
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