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ルーナ警察署での石井は今までとら打って変わり、気弱で従順な様子を見せた。
ただ、暗い絶望に凍結した目付きと共に「俺は何も悪くない……あいつが悪いんだ……。あいつが、俺の……殺したのは、俺じゃない……」、と自己弁護と佐々木への憎悪を滅裂に繰り返した。
結局、佐々木殺害の真偽や動機について決して口を割らなかった。
まるで目に見えぬ亡霊に怯えるように。
今は取り調べの可能な精神状態ではない、と判断された石井は署内の留置所に一時身柄を拘束されることになった。
安全性に特化した人工知能を搭載した厳重な監視と警備システムの下で。
収容室は窓も扉も全てが機械の壁に閉ざされ、警察証と面会許可番号がなければ解錠不能だ。
今頃は暗い部屋で恐怖の夜を独り過ごしている石井の心境を想像しながら、蛍は何気なく答える。
「光もそう思う? 人は見かけによらないけれど、私も何か引っかかるものを感じているの。石井が事件に関与していることは間違いないと思うけど」
「それだけ、か?」
純粋に心配する真摯な声と眼差しに、蛍は一瞬息を呑んだ。
蛍自身も自覚していない、胸の奥深くに眠っていた"何か"が波紋をあげた気配。
それは当たらずとも遠からず今回の事件と関係し、蛍の核心へ触れる"謎"であることに、光は薄々勘づいている。
しかし、珍しく口を噤む蛍の顔に沈痛な色が浮かんだのも、光は見逃さなかった。
「悪い、蛍。お前が話したくないのなら、無理にとは言わない」
寒空に独り晒された幼子のような心細げな眼差しに、光はそれ以上の追求を止めて蛍を慰めたくなった。
出逢った時から、いつもそう。
光は私のことをちゃんと見てくれている。
冷徹非情な警察官の仮面に隠れた、一人のちっぽけな女に過ぎない私の心の薄氷。
光は触れようとしても決して土足で踏み込んではこない。
植木鉢から庇ってくれた時もそうだが、自分よりも他人の心の機微や痛みに誰よりも敏感で慮る、どこまでも優しい男性。
真夏の太陽を彷彿させる優しさは、冬のように冷徹な蛍の仮面も心も温かく融かす。
光の前でなら当たり前の日常に悩み笑う、一人の普通の人間でいられる。
「ごめんなさい、光」
ただし未だ、胸の最奥で暗く渦巻く疑念と向き合い、言語化する勇気すら、今の蛍にはなかった。
ニーチェの『善悪の彼岸』は、蛍の義兄が愛読していた本。
蛍の義兄は、流行から古典に至るあらゆる文学作品や心理学関係の書物に造詣が深かった。
義兄の愛読書から引用された文が遺体に刻まれていたことは、単なる偶然の一致と呼ぶべきか。
時間のある時に『内村先生』へ意見を伺えば何か判明するかもしれない、と。
凄惨な事件にかつての身内が巻き込まれた可能性と不安を思う自分は果たして冷静なのか、と。
突如、義兄の存在を思い出してから、蛍は自分がただの非力な少女に逆戻りしたような心細さに襲われる。
何の根拠も確証もない仮定話で現場と同僚を混乱させることだけは憚られる。
「そう自分を思いつめるな。前にも言っただろ? 謝られるよりも、お前がこうして傍で笑ってくれるだけで、俺には十分だ。一人で抱え込むな」
申し訳なさそうに謝る蛍の小さな頭を、光は子どもをあやすように撫でた。
黒羽のさながら柔らかい黒髪は蛍の肩上で踊り舞う。
照れ隠しの代わりに無造作に触れてくる逞しい手。
記憶の義兄は、幼かった蛍の長い黒髪を気に入り、優しく梳いてくれた。
柔和な義兄の手とは正反対の、無骨で温かな手に蛍の胸は安堵に満たされる。
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