其ノ三『窮民の巣窟』

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 『"あの晩"も、彼は挙動不審で……声をかけづらいほど異様に殺気立っていました』  以前、石井が保育士マイスターの研修実習を受けていた施設で出会い、交際していた管理栄養士の女性は以下に証言した。  佐々木所長の死が発覚する二日前の晩に、『怪しい区域』へ出入りする石井を目撃した。  交際女性は、最近石井に連絡しても不在着信ばかりでメールの返信すら寄越さない石井に不安と共に浮気を疑った。  女性は退勤時間を見計らって待ち伏せし、彼を問い詰めようとした。  しかし、久しぶりに再会した石井の変貌ぶりに女性は絶句した。  生気の失せた眼差しにひどくやつれた石井は幽鬼のように今も消えそうだった。  一方、女性を視認した石井は逆ギレしたように罵声を浴びせ、一方的に別れを告げた。  当然、それで納得のいかなかった女性はもう一度話をするために、石井宅のマンションで待ち伏せた。  しかし、夜中になっても一向に帰ってこないことに痺れを切らした女性がやむなく夜道を引き返した時、偶然見てしまったのだ――。  「『朧月(石井)』が入っていったのは、『エクリプス区』の最奥に建つあの廃業ビルだそうです」  『エクリプス区』――月蝕を彷彿させる常闇に満ちた退廃的な区域へ、人目を忍ぶように独り足早に入っていった石井は何を考えていたのか。  石井を密かに追跡した女性の証言を参考に、早速蛍達は真夜中の貧困廃墟区へ足を踏み入れていた  十一月十七日・九時過ぎの夜。  元交際女性の目撃証言を参考に、早速蛍達は石井が潜伏していると思しきエクリプス区内へ潜入する作戦を実行した。  とはいえ、見かけない顔が大人数で訪れると、区内の貧民に警戒と不信を買われる。  特にエクリプス区に住み着いた貧民は、政府と公務職への尋常ならぬ反感と確執を抱いている。  霜月班と葉月班は、一組二名ずつに分散する体制で区内の各位置についた。  今回は石井が陽の届かぬ場所へ逃げた可能性も見越して、浜本は二名の刑事官を"潜入捜査“へ遣わせた。  「秋の月が一番綺麗だってのは、本当だなあ。この浪漫的(ロマンチック)状況(シチュエーション)に"イケてる"男女二人。悪くねーぜ?」  秋夜の閑散としたエクリプス区の物陰に潜めている二人は一歩ずつ慎重に歩む。闇を生きる難民を導くように煌めく月光を頼りに。  「不都合なことでも? もう少し静かにしないと見つかりますよ、黒沢刑事官。それと――」  蛍と黒沢は警察であることを気取られないために背広を脱いだ。蛍はくすんだ灰色の頭巾服(パーカーワンピース)の下にいつもの黒い全身タイツ、瓦礫や砂利の道を歩くのに適した灰色の地味目な運動長靴(スニーカーブーツ)を着用している。  ネカフェや貧民街を行き来する家無し女らしい装いの蛍は、背景に馴染んではいる。  一方、隣で軽口を叩きながら我が物顔で闊歩する同僚へ、蛍は冷ややかな眼差しで問いかける。  「何故に、そのような格好を?」  地味で目立たない格好を意識した蛍から見れば、別人並みの変貌を遂げた今の黒沢に違和感しかない。  普段の金髪・柔鶏冠(ソフトモヒカン)から、元の黒い地毛に戻したまではいい。  問題は頭に被った黒い(ニット)帽から覗く細長い縄束髪(ドレッドヘア)と茶褐色に日焼けした肌だ。  月光に妖しく光る黒の騎乗者外套(ライダースジャケット)に穴空きジーンズ、黒い長靴を着用している。  蛍自身は髪色や肌の色に関する偏見はないつもりだし、無法者じみた派手な身なりも、ルーナシティ唯一の無法地区に馴染んでいる。  とはいえ、一度きりの潜入捜査のためだけに、わざわざ日焼けサロンと散髪屋、服屋へ出向いてきた黒沢のノリも、あえて目立つ格好をする無鉄砲さも理解不能だ。  「はぁ。こりゃ、光も気苦労が絶えねーなぁ」  「何故、ここで彼のことが出るのか分かりません。彼ではありませんが、私語は慎みましょう?」  「おいおい。勤務中だが、そこまで淡泊な反応だと泣けてくるぜ? 俺には男としての魅力がないって暗に言われてる気がしてよぉ」  黒沢本人に至っては、普段と変わらぬ飄々とした態度で喋ってくるため、蛍は溜息を呑んだ。  危険地帯での潜入捜査においても、男女関係や光との仲について茶化される上司の身にもなってほしい。  「心配には及びません。私から見ても、黒沢刑事官は男性として十分魅力的です。ただし、美形であるという客観的評価と私自身の好みは、まったく別ですが」  「それでフォローしたつもりかよっ。さっきの一瞬の純情なときめきを返せよ!」  口説き文句に近い冗談にも真面目かつ淡々と返す蛍。  黒沢はわざとらしく落ち込んだ表情で肩をすくめながら、ここにはいない親友に軽く同情した。  ついには、任務集中で口を閉ざした蛍に、黒沢も退屈を持て余すように周りを観察する。  「うぷ……っ。なあ、蛍。クレセントムーン区とはえらい違いだが、エクリプス区はここまでひでぇのか?」  薄暗い路地を突き進む途中、黒沢は吐き気を堪えるように鼻口を覆い、眉を深く(ひそ)めた。  理由は区内へ入った時から周りへ意識を向けていた蛍にも明白だった。  区内の奥へ進むにつれて濃密に感じられるのは、不衛生な悪臭と空気の汚濁。  人離れした野性の五感を誇る黒沢には、息をするだけで脳まで汚染されそうな苦痛に違いない。  腐った土水や食物、死骸に汚物が混ざり合うような悪臭の源の一つは、区内に分散する貧民だ。  凍てつく夜風を凌ぎすらできない襤褸(ボロ)を頭から被り、死体のように横たわるホームレスの姿は、路地の片隅や廃墟の瓦礫の影などに見られた。  に蛍と黒沢の気配へ一瞥するだけで、「虚無」以外を一切宿さない陰鬱な眼差しと風貌に、さすがの黒沢も皮膚が粟立つのを感じた。  「……見ての通り、勘の鋭いあなたなら気付くと思います。この場所、ここの方達に宿る"闇"に」  一方、自分よりも華奢な女が眉一つ動かさずに歩いて行く姿に、黒沢は内心感心した。  罪と穢れの汚泥に咲く清廉潔白な蓮の花を彷彿させるからか。  冷凛とした眼差しは、荒れ果てた地区と人間に対する侮蔑や不快感、憐憫とは異なる静けさに澄んでいる。  黒沢は陰惨な景色と悪臭に滅入っていた心が浄化される気すらした。  「黒沢刑事官は、聞いたことありますか。政府による『ICT化計画』を推し始めた頃に起きた、“或る事件"を」  大いに眉を顰めて首を傾げる黒沢の様子から、彼がルーナシティの成り立ちに精通していないと察した蛍は簡潔かつ丁寧に説明した。  光曰く、歴史や社会科等の座学も小難しい話も好かない黒沢は、警察筆記試験にはギリ合格だったという。 .
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