其ノ三『窮民の巣窟』

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 「――すげぇ。まさか、"こんな場所“が本当に存在したとはな」  エクリプス区・第四駐車場ビルの地下一階まで降りた蛍と黒沢は見つけた。  地下駐車場の闇と瓦礫に隠れていた扉の向こう――過去に廃止された駅地下の跡地。  本来であれば、どこもシャッターを閉じた地下商店街に鉄道の通らない無人駅が広がっているはずだった。  「人が集まれば"共同体“は生まれる。その次は、"生計“を維持する仕組みとして"生産“を始める。それは、この場所にも当てはまるのでしょう」  二人を迎えたのは予想しなかった驚きの光景だった。  さびれた無人の地下空間であるはずの場所は、混沌に彩られた市場、刹那の京楽に耽る貧民達で賑わっていた。  妖艶な緋色に揺らめく提灯が両側に連なる地下通路。  閉じたシャッターを背に設けられた市場には、物珍しい手製の商品が取引されている。  芳しい出汁と香辛料で漬けて焼いた肉や、小麦粉と水・卵を練った香ばしい揚げ菓子や我楽多(ガラクタ)を集めて加工したらしい宝飾品や衣類、電子機器等の山と列。  今のルーナシティでは電子金と仮想通貨のみで取引されている。  しかし、ここでは旧時代の物的貨幣と物々交換が行われているようだ。  かつての旧時代に存在した下町の繁華街へ時間旅行(イムスリップ)したよう。  珍しい光景に黒沢は興奮に目を輝かせ、冷静沈着な蛍すら興味津々に観察している。  エクリプス区の『解体反対運動』を機に決定的となった政府と地上との訣別、区民同士の仲間意識で結ばれた貧民。  彼らはこの廃ビルの地下空間に共同体の拠点を作ったのだろう。  冷酷な政府にも世間にも邪魔されない秘密の闇穴で。  「そこの美しいお嬢さん。一つどうだね? 採れたて野菜を炒めた美味しい肉まん。百円玉で安くしてあげるよ」  「まあ、美味しそう。頂きます」  不意に声をかけてきた気配に振り返った黒沢は思わず慌てた。  いつの間にか傍を離れていた蛍は、商いの老婆の前で足を止めていた。  しかも、普通なら持っているはずのない銀ピカの百円玉を右手から渡すと、同時に左手は二つの肉まんを受け取っている。  「まいどあり。もう一つは、そこの男前な彼氏さんの分かい? こんな別嬪な彼女さんの奢りとはいいねぇ」  蛍へ駆け寄った黒沢に気付いた老婆は、愛嬌に溢れる笑顔をしわくちゃな顔に咲かせる。  古参と思しき老婆からの予期せぬ歓待、普段と比べものにならないほど社交的で場に馴染んでいる蛍に黒沢は戸惑うばかり。  にこやかに話す蛍と老婆の手前、大人しく受け取った肉まんを肉まんを黒沢は凝視する。  もっちりした熱々の包子から漂う、驚くほど芳しい肉と野菜と脂の香り。  確かに、普段から到着時にはすっかり冷めてしまう配給食よりもひどく食欲をそそられる。  とはいえ、貧困区の人間が手がけた食べ物となれば、不衛生な環境で生産・加工された食材は汚染されているかもしれない。  潜入捜査のためとはいえ、政府の食品衛生監査を通していない非合法食品を口にすることに躊躇を覚える。  「んー。とっても美味しいわ。さすが手作りらしい素朴な優しい風味がするわ」  一方蛍は、老婆と楽しそうに談笑しながら、当たり前のように肉まんを美味しそうに頬張る。  度胸があるのか、それとも本当に神経が図太い天然なのか。  いずれにしても、普段の冷然さの抜けた“普通の少女“らしい無邪気な姿を眺めていると、つい身構えている自分が馬鹿らしく思えてきた。  しっかりしろ、普段の俺らしくねぇ。  すっかり毒気を抜かれた黒沢も肉まんを一口頬張ってみた。 .
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